「Mother」 の練習は週1回のペースで行われていた。ほとんどが土曜日の昼間である。昼間の3、4時間とはいえ毎週のことだ。防音設備のまったく施されていない部屋からあふれ出る音を、近所の人たちはよく辛抱、我慢していたなと思う。当時の光町、野栄町、横芝町、松尾町、蓮沼村等、近隣の町村の中では1番栄えていた商店街のど真ん中である。ご近所のみなさんは皆、懐 (ふところ) が深かったのか、太っ腹だったのか、商売繁盛でうるおっていて余裕があったのか、いや、あるいは江崎さんのおとうさんが地域で相当の影響力を持っていたのか、はたまた裏で江崎さんのおかあさんが 「すいませんね〜」 と菓子折でも持って挨拶に行っていたのか…。定かではないが、苦情など1件もなく4人は練習に集中することができた。毎土曜日といっても実際には1年を通して練習していたわけではなかった。ライブが決まるとその日に備えて練習を始めるのだった。 「Mother」 はその秋の学園祭に照準を定めていた。高校の3年間を締めくくる最後の学園祭ライブだった。当然、気合いが違う。当時は近くにライブハウスなんてものはなかった。あったとしても集まってくれる人数の桁が違う。ライブハウスだとせいぜい30人ぐらいしか来てくれなかっただろうが、学校の体育館には少なくとも300〜400人の観客が集まることが予想できた。学園祭は数百人もの観客の前で演奏できる唯一の機会だった。当時はライブハウスなんて千葉市まで行かないとお目にかかれなかったが今では銚子や旭にそれらしき小屋があると聞いた。行ってみたいなと思うが、あったとしてもライブハウスという形態だけでの経営は大変だと思う。 リーダーの鈴本さんと片腕的存在の藍さんは旭農業高校に通っていた。たしか、 鈴本さんは銚子市に、 藍さんは旭市に住んでいたはずだ。ドラムの寺口さんは横芝町から山武農業高校に通っていた。ベースの江崎さんは成東高校 (後にぼくが通うことになる学校だ。 江崎さんは先輩になった。) だったから、住んでいた場所も学校も広範囲に渡っていた。 鈴本さんにいたっては練習が終わって家に帰るのに電車で1時間以上はかかる。目標の学園祭は9月だったか、10月だったか旭農業高校でのものだった。ぼくたちは土曜日の放課後には必ず江崎薬局を訪れるようになっていた。3人が4人になったり5人だったり…。顔ぶれもそのときどきだったが、 「Mother」 のメンバーはいつでもぼくたちを快く迎えてくれた。それもそのはずだ。ぼくたちはこの上ない観客だった。ちょっとしたフレーズにも 「おお〜っ、すげえ!」 「かっこいい〜」 と反応する。曲が終わるたびに大きな拍手を送る。尊敬と畏敬の念にあふれた眼差しで見つめられていた高校生たちは演奏するたびに自信を深めていったに違いない。 何度目かの土曜日だった。 鈴本さんが、ぼくたちに向かって 「おめえらん中でピアノ弾けるやついねえが?」 と言った。どうしてそんなことを聞いたのか想像もつかなかったが、ぼくはみんなとちょっと顔を見合わせた後、小学校6年生までピアノを習っていたが中学生になってからはまったく弾いていないと静かに答えた。 「1曲ピアノがいったあけどやってみねえが?」 鈴本さんの言葉にぼくは耳を疑った。 「ええっ!?」 まさに青天の霹靂 (へきれき) だった。一瞬にして鼓動は激しさを増した。 『そ、そんな大それたこと…』 『2年半もピアノに触ってないし、弾ける訳ない…』 『どうしよう…』 一瞬、喜びの感情もわいたが、 『ギターかベースの方がかっこいいのに』 とか 『ピアノはクラシック音楽の楽器じゃないか』 とか…、逆に 『ステージに立てるんだぞ!』 とか 『バンドのメンバーだって!』 とか…。様々な感情が頭の中を駆け巡り、訳の分からない状況に陥ってしまった。いや、それ以前にまったく自信がなかったのだ。ところが、高校生たちは6年間ピアノを習ったと聞いただけでぼくの実力も確かめもせずに 「天の助けだ!」 「お前しかいない」 などとおだてあげてどうにかこうにかぼくをその気にさせてしまった。 江崎薬局を出ると友達は 「すげえなぁ」 「いいなぁ」 と羨ましがってくれたが、家に近付くにつれてだんだんと心細くなっていった。 キャロルの “涙のティディーボーイ” という曲だった。ピアノの、いや、チェンバロのような音色だったと思うが、鍵盤楽器のみのイントロから始まる曲だ。ピアノの譜面とその曲の入ったカセットテープをもらって家に帰り、何年かぶりにピアノを開けてみた。恐る恐る弾いてみると当然だが指はまったく動かない。動く訳がないのだ。 『だめだ…』 と観念したが、感触を確かめるようにしてしばらく弾いていると、練習をすればどうにかなるかもしれないという気がしてきた。メロディは美しい。曲も詞もすばらしい。ぼくは夢中になって繰り返し弾き続けた。ピアノの音を聞きつけて父も母も弟、妹まで珍しげに集まってきた。皆、言葉にはしないが何を聞きたいか、ぼくには分かっていた。なぜ、ピアノの前に座ったのか、なぜ、この曲を弾き始めたのか…。経緯 (いきさつ) を説明すると不思議そうに 「へえ〜ッ」 とただうなずいていた。母が 「これが仕事になったりしてねえ」 なんて今考えると予言めいたことをつぶやいたのをはっきりと覚えている。 江崎薬局にはピアノがあった。 江崎さんのお姉さんのものだった。1週間後、 「Mother」 と音を合わせる時が来た。ぼくは懸命に練習をして、どうにか弾きこなせるようになっていた。緊張の一瞬は早足で訪れる。ぼくは思い切り弾いた。 「いける!」 鈴本さんが叫んだ。 「おう!」 無口な江崎さんまでが興奮している。 「やったぞ!」 ぼくは胸が高鳴った。高校生たちはみんな納得したらしい。ぼくは正式にライブに参加することとなった。ピアノは “涙のテディーボーイ” のイントロだけだったが、それだけではかっこ悪いということで曲の最後まで弾くことになった。イントロの後はコード (和音) を弾くのだ。ドミソ (C) レファラ (Dm) のように各小節の1拍目に簡単な3和音をバーンと弾いていった。いわゆる白玉 (全音符) だ。これだけでもかなりおもしろい。おかげでコードのことも少しは学ぶことができた。生のギターやベース、ドラムと合わせるのは初めての快感だった。なんて楽しいんだ!ぼくはバンドというものに底なしの魅力を感じ始めていた。 『キーボード奏者になるのもいいな』 そうも思い始めていた。 学園祭で演奏するのは3曲だった。どんどん欲が出てきてあとの2曲も弾いてみたくなった。メンバーには内緒でその2曲を練習しておいた。 『みんな、びっくりするだろうな』 ちょっとだけ得意になって次の練習に臨んだ。 “涙のテディボーイ” が終わると、次の曲がカウントされた。ぼくは何食わぬ顔で弾き始めたのだが、すぐに 「スト〜ップ」 鈴本さんが叫んだ。 「…」 何だろう?鈴本さんはぼくに向かって 「この曲はピアノないよ」 と素っ気なく言った。確かにピアノのパートはなかった。厚みが出てかっこよくなるのになあ、と言いたかったが鈴本さんの言葉は絶対だ。あきらめざるを得なかった。調子に乗りすぎていたのかもしれない。ぼくは1曲にかけることにした。ピアノでステージに上がるのは1回だけだ。その代わり悔いのない演奏をしよう。心で誓った。 その日が来た。母はよそ行きの服を用意してくれていた。薄いブルーのシャツと紺のパンツだった。どうやって旭農業高校に行ったのかは覚えていないが電車で行ったはずだ。いや、誰かの車だったかもしれない。学校に着いたらほとんどが男子生徒で、いわゆるツッパリ系が多かった。ステージが始まる前はなるべく誰とも目が合わないようにと、体育館の隅で小さくなっていた。中学生から見た高校生は “恐ろしげな大人” でしかなかったのだ。この日の出来事で覚えている場面は数少ないが、はっきりと目に焼き付いているのはステージから見た客席の姿だ。何かを期待する人たちの熱気が炎のように燃え上がり、体育館は膨れ上がっていた。ぼくは、その圧力に耐えるので精一杯だった。 「Mother」 のみんなも緊張しているのが分かった。さあ、いよいよ始まるんだ。鈴本さんから、合図が送られてきた。覚悟を決めたぼくは 「えい!」 と、刀を振り下ろすようにイントロを弾いた。迷いなんてなかった。出来は完璧だった。イントロが終わるとこれ以上ないタイミングでみんなが入ってきた。 「あ〜あ〜、こんなに〜」 「あ〜あ〜、こんなに〜」 鈴本さんの歌が沁みる。藍さんのギターがうなる。江崎さんも寺口さんも必死だ。ぼくも無我夢中で弾き続けた。ふと我に返ると曲は終わっていた。大喝采だ! 「やったぞ!」 震えるような達成感を味わった瞬間だった。2曲目と3曲目は弾かなかったが鈴本さんの言いつけで退場せずにピアノの前に座っていた。ぼくはそのままステージの上で演奏する4人を見つめていた。 「Mother」 はロックし続けた。 何年かあとに江崎さんから聞いたのだが、この日のステージは後にも先にも最高の出来だったらしい。初ステージの喜び、うれしさは言葉にできないほどだった。ステージが終わって体育館の外に出たところで記憶は終わっているが、ぼくは 「これしかない!」 そう確信していた。バンドのすごさ、すばらしさを知ってしまった。 「高校に行ったらバンドを作るんだ。今度はベースだ!」 心で叫んでいた。 「そのためには勉強もしないといけないな。」 はじめて高校受験を意識した瞬間でもあった。やわらかい秋の風が頬をなでた。 「いつかは髪を伸ばそう!」 5分刈りのロッカーは天を仰いだ。 (つづく) ※ 『楽器の話』 は毎月30日に発表しようと思っています。第6話は5月30日に掲載予定です。お楽しみに! |
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