「とりあえず “ファンキー・モンキー・ベイビー” やってみよっか」 「オッケー!」 『♪タラッ、タララ…』 おもむろに弾き出したキンジのギターに合わせてリッカはスティックを、ぼくとテツロウはピックを振り下ろした。と同時に心地よいエイトビートが体の中を駆けめぐった。 『これだ!』 一瞬にして体が熱を帯びる。何かに火が点いたのだ。得体の知れない何かが燃え出した。確かだ。テツロウが興奮をあらわにしている。リッカは高揚して顔を赤く染めた。キンジだけが何食わぬ顔をしてギターを弾いている。このとき4人の体の中に点 (とも) った炎はその後の2年間を決定付けた。新バンド 「CHILD」 の誕生だった。

  その日の数週間前、横芝駅でリッカが突然話しかけてきた。 「ベースやってんだって?」 「うん、やってるよ」 「一緒に音出してみない?いいギターがいるんだけど」 「…」 リッカは積極的だった。 『これってオレの台詞じゃない?』 ぼくは少々戸惑った。彼は光中で同学年だったが、隣のクラスだったから挨拶を交わす程度だった。中学校の3年間、剣道部に所属し何度も県大会で好成績を収めた彼は勉強もよくできた。背も高く明るい笑顔が魅力的な男だ。彼は八日市場市にある匝瑳高校に進学していた。リッカがドラムをやっていたなんてぼくはまったく知らなかった。彼はぼくと同じように高校に入学するとすぐにバンド活動を始めそこで横芝中出身のギタリスト、キンジと出会っていたのだ。

  リッカは在日朝鮮人だ。子供の頃はぼくと同じ中央保育園に通っていたのだが彼は東京の朝鮮小学校に進み、6年後、光中で改めて再会した。 「CHILD」 結成の年に横芝駅で突然声をかけられ、初めてじっくり話をすることになったのだが、自分のことを堂々と語る彼はかっこよかったし大人びて見えた。いや、実際に大人びていた。リッカとはすぐに親友になった。彼との思い出はつきない。とにかくよく遊んだ。未知の世界の水先案内人にもなってくれた。彼のおかげかぼくはずっと朝鮮の人たちには親近感を持っている。歴史を考えても兄弟のようなものではないか。2002年に開催されたサッカーワールドカップが日韓共催になった時は 『これでもっといい関係になれる』 と喜んだものだし、日本人と韓国人がお互いをどう思っているかという調査の結果を暗い気持ちで眺めたりもした。最近はドラマや映画、そして読売ジャイアンツのイ・スンヨプ選手らスポーツ選手のおかげで両国の距離が縮まったように思える。理由はどうあれ喜ばしいことだ。国と国の関係改善、修復には “政治” ではなく “文化” や “芸術” の力の方がはるかに影響力を持っているのだなということに改めて気付かされた。2006年に日本でも公開された “トンマッコルへようこそ” という韓国映画のように (中国の問題も北の問題も含めて) もっともっと前向きに考えられたらなと思う。リッカとしでかした数々のヤンチャの中にはおもしろい話もたくさんあるが、それらはまたの機会に紹介することにして新バンド結成の経緯の話を進めたい。

  リッカとぼくの好きな音楽やバンドの方向性のようなものはおもしろいように一致していた。リッカの盟友、ギタリストのキンジは兄の影響で中学生のころからエレキギターを弾いていた。そして、リードギターを弾くタイプだった。当時はバンドにギタリストはふたりいるのが普通だった。“リードギター” と “サイドギター” だ。サイドギターなんてとんと聞かなくなった。 (※リードギターという言い方も最近はあまり聞かなくなったような気がする。) もはや死語になってしまったが簡単に言うと…メロディーやフレーズはあまり弾かずにコードをキープして歌やギターソロの後ろをキチッと固めるというのが大きな役割だ。そして、サイドギターはボーカル兼任という場合が多かった。ジョン・レノンがそうだし、テツロウもこのタイプに当てはまる。キンジはリーゼントが似合った。どちらかというと言葉数は少なかったが話し出すとユーモアもある。彼もまた強烈な個性の持ち主だったのだ。そして何より決定的だったのはリッカもキンジもボーカリストであったということだった。

  ぼくとテツロウは… (※テツロウが実際にどう思っていたのかは知らないが) 歌えるドラマーとリードギタリストを探していた。そして、リッカとキンジも歌えるギタリストとベーシストを探していた。双方の思惑が完全に一致しお互いに理想とするメンバーがあっという間に揃ってしまったのだ。嘘のような本当の話なのだから “真実は小説よりも奇なり” だ。事実だからこそおもしろい。リッカはTAMAのドラムセットを持っていた。色は…忘れてしまった。キンジのギターはテツロウやコウチと同じ白のストラトだった。偶然だったのか、ジミヘンの影響だったのか…あるいはぼくの記憶の中ですべてのギターが白のストラトになってしまっているのか…。いやそんなはずはない。

  このころぼくはすでに新しい楽器を手に入れていた。ヘフナーのバイオリンベースだ。ポール・マッカートニーの代名詞のような楽器だから 『あれか!』 とすぐに頭に浮かぶ人も大勢いるに違いない。ヘフナーはドイツの楽器メーカーで、バイオリンベースはその名の通りバイオリンの形を模して作られている。ボディーは空洞、いわゆるセミアコだ。ネックはかなり細い。ベースの王道であるフェンダーのプレベやジャズベのネックはナットの部分からボディーに向けて徐々に太くなっている。ぼくの部屋に並んでいるベースのうち一番近いところにあるジャズベのネック幅を測ってみるとナットの部分は4センチ弱、ボディー側の一番太い部分は約6センチだ。これが平均だろうか。(※ネックの太さは作られた年代によって微妙に違う。手作りのものは個体差も大きい。) それに比べてヘフナー・ベースのネックはローポジションからハイポジションまでの太さが同じなのだ。どこを測っても4センチ。弦と弦の間隔がかなり狭い。指で弾くにはかなりの無理があるからほとんどの場合ピックで弾く。ピックで弾くしかない。もちろんポール・マッカートニーもピック弾きだ。今ではめずらしい黒のナイロン弦が付いていた。 (※バイオリンベースにはこの弦以外は邪道だ。現在でもこの弦が使われている。) セミアコにナイロン弦、ピック弾き…これらの要素が絡み合ってこのベースにしか出せない独特の音が生まれるのだ。このベースに慣れてしまうと他のどんなベースを持っても難しく感じてしまう。横芝には楽器屋がふたつあったがアンプを買った越川楽器 (YAMAHA系) ではなく大川楽器 (KAWAI系)で売られていた。中古で5万円だったと思う。当時としても安かったように思うが高校生の小遣いでは厳しい。小さいころから貯めていたお年玉はアンプの頭金に変わってしまっていた。支払いはどうしたのか…まったく覚えてはいないが親に頼み込んだとしか思えない。後に3台目のベースYAMAHA/BB-1200を買うのだが “普通” のネックに慣れるのにだいぶ苦労した。ぼくにとって2代目となったこのベースは大学1年のときに売ってしまった。今となっては当時の写真を眺めるしかない。

  テツロウも念願のグレコのリッケンバッカー・モデルを手にしていた。品番は分からないがジョン・レノンが使用していた黒いギターをほぼ完璧に再現したものだった。ぼくがどのようにしてリッカとキンジの話をテツロウに持ちかけたのかはよく覚えていないが、ぼく自身も半信半疑だったのだからとりあえず1回やってみようか程度のことだったと思う。

  みんながそれぞれの楽器を持ち寄ったのは栗山川の河川敷に立つ一軒家だった。リッカの親戚が空いていた家を練習場として提供してくれたのだ。近くに民家はない。練習場としては最適な環境だった。ぼくはリッカと一緒にリヤカーでドラムセットとアンプを運んだ。当時はリヤカーで運ぶのが当たり前だったのだ。楽器もマイクもすべて揃っていた。場所も申し分ない。ただ…肝心なのは音だ。この部分が納得できなければ一巻の終わりだ。セッティングが終わると緊張の面持ちでリッカが言った。 「ファンキー・モンキー・ベイビーでもやってみよっか」 寒い冬休みの午後だった。 (つづく)

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