17歳。ぼくの1978年は輝いていた。明るくまばゆい光だけではなく暗く苦々しい色の光も含めて毎日が体を突き抜けるような輝きに包まれていた。毎日新しい玉手箱を開けていたかのような1年だった。このきらきらとした、激動の (と言い切ってしまおう)、まさに青春真っ只中の1年の記録は5月12日から始まっている。

  手元に1冊の手帳がある。この年ぼくは初めて自分の手帳を手にした。母が勤めていた会社のロゴ入りのものだ。この年の5月12日(土)から12月31日(日)まで様々なことが鉛筆で、シャープペンで、黒の、青の、緑のボールペンでこと細かに書かれている。となりには1979年の手帳もあるのだがほとんど何も書かれていない。3年生は受験の年だったということもあったのだろうがかなりの温度差がある。それだけ2年生だった78年が突出していた、充実していたということだろう。誰にでもそんな1年がある、あったはずだ。 『俺にはそんな1年などなかった』 という人は単に忘れてしまったというだけだ。なぜ5月12日からだったのかは分からない。突然思いついたのだろうか。いや、偶然に違いない。その日までの記述はわずかだ。恥を忍んで原文のまま書いてみよう。 (※人物名のみ変えています。)

◆1月21日(土) 「マラソン大会 337位」
◆3月31日(金) 「夜の2時ごろまで原付の勉強をやった 明日はできるだろうか」
◆4月 1日(土) 「原動機付自転車のめんきょをとりにさかつきにいった みごと合かく (ミコトとスシオはおちた) うれしかった」
◆4月20日(木) 「17才 全々おもしろくなかった」
◆4月29日(土) 「テツロウと二人で東京の六本木にグルービーのコンサートを見に行った すばらしかった」
◆5月 6日(土) 「She から Letter をもらい完全にフラレタ」
◆5月 8日(月) 「Seven Star!」

  5月12日以前はこの7件しか書いてない。読み返してみるとおもしろい。そして、かなりはずかしい。1月21日 「マラソン大会 337位」 とあるが成績としてはどうだったのだろう。レースは男女に分かれて行われた。全校生徒数は約1000人。 (※1クラス約40人。各学年ともに8クラスあった。) そのうちの60%〜70%が男子生徒だった。60%なら600人、70%なら700人の中の337位ということになる。まあまあだがあまりまじめにやっていない。昨年の11月、実家に帰るついでに成東高校に寄ってみた。校舎、体育館、グランド、そしてマラソン大会で走った景色も当時のままだったが学校の象徴だった巨大な下駄のモニュメントが取り外されていたのは本当に残念でならない。何がいけなかったのだろうか。こういう “個性” こそが大事なはずなのに…。取り外された下駄の跡だけが小綺麗で痛々しかった。

  3月31日には一夜漬けで原付免許の勉強をしたのだろうが、試験当日の (ミコトとスシオはおちた) には笑ってしまう。原付の試験は50問。50点満点で45点以上が合格だった。…と思うがこれがなかなかむずかしい。名誉のために書いておくが、ミコトとスシオは2度目の試験でリベンジを果たした。 “さかつき” というのは試験場のことだがどこにあったのかまったく覚えていない。この日のことで印象に残っているのは合格発表のときにぼくの番号のランプが点灯した場面だけだ。その後、ぼくは原付バイクで学校に通うようになる。ちなみにバイクはYAMAHA MR-50、白いバイクだ。ミコトとカッツの新バンド 「CHAINS」 のメンバーとなったイチオから25,000円で買った。

  バイクで学校に通うには担当の先生と学年主任の先生、そして生徒指導の先生の許可が必要だった。書類を持って先生のところへ行き判子をもらうのだ。担任の先生と学年主任の先生は 「気をつけるんだぞ」 と言いながらもすぐに判子をくれたが問題は生徒指導の先生だった。この先生は体育教官室のドンだった。教官室は体育館の脇にまるで隔離されたように佇み、運動部顧問の先生方がたむろ、いや、控えていらっしゃった。ほとんどの先生がジャージ姿で中には角刈りに剃りこみの入った先生もいたのだから、教官室の中に入ると到底学校だとは思えない。はっきり言って数人の先生は本当に怖かったが、どの先生も “熱血” だったということだ。入学してからほぼ1年間、バレー部顧問の先生が熱心に誘ってくれた。 「バンド?なんだそんなもん、バレー部に入れ」 とか 「いちかわ、髪が長い!髪を切ってバレーをやれ」 とか会うたびにちくちく言われたものだが、3年間、学園祭では必ずライブを観てくれた。どこかでバンド活動を認めてくれていたということだ。言葉とは裏腹に筋が通っていた。生徒指導の先生を訪れること3度、ようやく判子をもらい体育教官室詣(もうで)は終わった。嘘のような話だが入り口には 「狂犬に注意」 という張り紙がしてあった。

  4月20日、17才の誕生日は意外に地味だったらしい。ちなみに 「ぜんぜん」 の漢字が違っていますね。 (※正解は “全然”」 )

  4月29日には初めてライブハウスに行った。今はなきピットインだ。ライブハウスデビューが六本木ピットインだったなんてなかなかかシャレてる。 “六本木” の前に “東京の” が付いているのがいい。錦糸町に住んでいる親戚のとなりの家にドラムをやっている人がいた。四つか五つ年上だったと思うが彼のバンド 「グルービー」 を見に行ったのだ。それまで数度しか会ったことのない人だったがなぜかそれ以後も交流はないままだ。ハードロックでオリジナルを中心に演奏していたがアンコールの 『ジョニー・ビー・グッド』 でステージに上げられてしまった。 「えーいっ!」 とばかりにでたらめ英語で歌ったのを覚えている。ライブは昼の部だった。外に出ると東京タワーが大きく見えた。

  5月6日のできごとは文字通り…。 「She」 と 「Letter」 が英語で 「フラレタ」 がカタカナ。標語的だ。まったく無意識で書いたのだろうがなかなかセンスがいい (笑)。でも何で 「She」 なんだろう…。この文章からショックが窺(うかが)えるか…。大網出身の彼女は新潟大学医学部に行って医者になった。

  5月8日の 「Seven Star」 も分かりやすい。初めてタバコを吸った日だ (笑)。セブンスターはそれまで人気のあったハイライトをあっという間に抜いてペストセラーになっていた。ニコチンもタールもきつめだ。初めて吸ったときは 「ゴホッ、ゴホッ!」 気持ちが悪くなった。味わえる訳がない。このころタバコを吸ったのは単なるポーズでしかなかった。

  この調子で5月12日からのできごとを書いていく…なんてことはできないが文字で残っているだけにいろいろなことが思い出される。いよいよ 「CHILD」 の本格的な活動が始まる。 (つづく)

Copyright(C)2008 SHINICHI ICHIKAWA
Home Page Top Essay Top