「もしもし…」
「はい、グレート楽器・街中店です」
「あのう、ホームページを見て電話したんですけど」
「ありがとうございます」
「ARAIのAP-53とAP-58、まだありますか?」
「…たしか、ガットでしたよね。はい、2台ともまだありますよ」
(よかったぁ…)
「あのぅ…近いうちに行くので取り置きしてもらえませんか?」
「あ〜すいません!うちは基本的に取り置きはしてないんすよ」
(なんだよぉ…安い楽器はダメなのかよ。高い楽器なら喜んで取り置きするんじゃないか)
「そうかぁ…たとえば今日中に行くとしたら取っておいてもらえますか?」
「申し訳ないんですが、できないんですよ。でも、今日中に来れるんでしたら多分残っていると思いますよ」
(たぶんって…もし売れたらどうするんだよ。しょうがない…行くしかないのか)
「そうですか…分かりました。じゃあ、お店に伺います」
「すいません!よろしくお願いします」
次の日の昼休み。ノリオは会社の外に出るとすぐに電話をしたのだった。前夜、携帯電話から一度ダイヤルをして発信履歴を残しておいたから電話はボタンふたつでかかった。目的のギターがまだ売れていなかったのは幸運だったが、残念なことに取り置きはしてもらえない。
『時間との勝負か』 ノリオはいてもたってもいられなくなったがこればっかりはしょうがない。 『あとは天にゆだねよう』 ノリオは売れてしまったらしょうがないと覚悟を決めた。決めるまでは少々うだうだするのだがひとたび決断したらすっきりと前に進めるのがノリオのいいところだ。それでもなるべく早くグレート楽器・街中店に行かねばならない。
電話を切るとノリオはその足で行きつけの中華料理店に向かい肉野菜炒め定食と餃子を注文した。この店の餃子、野菜と肉の割合はほぼ9:1だ。ノリオが理想とする餃子の黄金率にどんぴしゃり当てはまる。ここに来ると餃子を注文せずにはおれない。
『昨日は定時に帰っちゃったから今日は早く帰れないなあ…。よし、今日はあきらめた。その代わりに明日の出社を午後からにしてもらおう』 ノリオの仕事は深夜に及ぶことや休日に出勤することが多々ある。そのため出社時間や退社時間についてはある程度融通が利くのだ。ただキチッと申告するのがルールだ。ノリオは食べ終えるといつもの缶コーヒーを片手に仕事場へ戻った。部屋では食事を終えた部長がひとり、スポーツ新聞を読んでいた。血色のいい、やる気満々の顔は今日も健在だ。エネルギッシュなオーラが体から漂っている。ホソダ部長は部下想いで信頼できる上司だ。ノリオは小細工せずに正攻法で行く。
「部長!」
「おう、どうしたノリ」
「明日、午後出社にしていただきたいのですが」
「何か用事か?」
「いえ、私用です」
「いいだろう」
ホソダ部長は間を空けずに答えた。小気味好い。こうすっきり言われると張り切らざるを得ない。 「ありがとうございます」 ノリオはこの日、10時まで仕事を続けた。
明朝、9時45分に起きてお茶漬けをかき込むとノリオは勇んで家を出た。グレート楽器・街中店へはあれから連絡していない。 『売れてたらそれまでよ』
と潔 (いさぎよ) いノリオの足は前へ前へと進む。グレート楽器・街中店は1日に何万人もの人が行き交う大きな駅から15分ほど歩いたところにある。30年以上の歴史を持つ老舗楽器店のひとつで楽器に興味のある人ならばほとんどの人が知っているような有名店だ。ノリオは10年以上前に何度か行ったことがあった。おおまかな地図は頭の中に入っている。ノリオは駅の改札を抜けると人混みを避けるかのように路地裏の細い道を歩いた。夜にならないと目覚めない通りはシャッターや窓だけが太陽の恩恵を一身に集めている。ノリオは軽快に街を横切り二つ目の幹線道路を渡ると進路を右にとった。
『間違いないな』 景色はさほど変わっていない。しばらく歩くとグレート楽器・街中店の看板が目に入った。 『あそこだ』 時計の針は11時10分を指している。店は開いたばかりだった。他に客はいない。ノリオは店に入ると迷わずにアコギを探した。
アコギのコーナーはすぐに見つかった。そしてその中にちょっと背の低いガットが2本並べられていた。 『あった!!』 ノリオは心の中で叫んでいた。なかばあきらめていたのだから喜びはひとしおだ。ノリオの目は射貫くように楽器に注がれている。タグを見た。12600円、ARAIのAP-53とAP-58だ。
『これだ、これだ。なかなかいいぞ、安っぽくなんかない』 ノリオはすぐに店員に声をかけた。 「すいません!これかこれを買いたいんですけど」 ノリオの指は背の低い2本のガットを差している。
「はい、わかりました。ちょっとお待ちください。」 店員はノリオをイスに案内し座らせるとまずAP-58を手に取り簡単にチューニングを始めた。そして
「まずはこちらを」 と言ってノリオに手渡した。 『軽い!』 それが第一印象だった。ポロンポロンと弾いてみた。 『いい音だ。まったく問題ないや。小さいけどソウタにはぴったりだな』
ノリオは納得して3度ほど頷いた。 「次はこれですね」 店員はノリオからAP-58を受け取ると一段と小ぶりなAP-53を差し出した。こちらは更に弦長が5センチ短い。『5センチでこんなにも違うのか』
ノリオはちょっと迷った。ソウタの手の平と指を思い浮かべてみた。 『あの手には53の方がいいか…でも将来、普通の大きさのギターを弾くときにギャップがあり過ぎると困るな』
ノリオはソウタの成長も考えに入れて結局AP-58を買うことにした。
「まずカードをお返しします」 店員はノリオにクレジットカードを手渡した。現金がなかった訳ではないがノリオは2000円以上のものはなるべくクレジットカードで支払うことにしていた。カードで買い物をするとポイントが貯まる。
「では、こちらにサインお願いします」 店員は金額の入った紙とボールペンを差し出した。ノリオはなんの疑いもなくさらさらと名前を書いた。 「こちらレシートとお客様控えになります」
ノリオはそれを受け取った瞬間不思議なものを感じた。違和感と言ったらいいのか、第六感と言ったらいいのか。 『…なんかおかしいぞ』 ノリオは渡されたレシートをそっとのぞき見た。
(つづく) |