<百一の葉>
ノリオの日常
オラ!(二)
 

 ホソダ部長の席は広い一室のほぼ中央にある。ノリオは意を決して立ち上がり、その席へと向かった、いや、向かおうとした。ノリオの目が振り向きざまに捉えたのは、ホソダ部長の見たこともないような苦悶の表情だった。『な、なんなんだ。マジでやばいぞ、これは…』ノリオは振り上げた足を止める訳にもいかず一歩、二歩と歩き始めた。ただ、足は部長席の方へは向かわず、進路を右に取った。ノリオは急激に速度を増した鼓動を押さえるべく廊下へと急いだ。

 ホソダ部長は痛みに堪えていた。脂汗がにじむほどの鈍い痛みが、ジンジンと左顎を刺激している。歯医者でもらった「ボルタレン錠」(※痛みをやわらげ、炎症を抑える薬)は10分前に飲んだ。ドクターは、飲んでから30分ほどで効き始めると言っていたから、効果が出るにはあと20分ほどかかる。一緒にもらった「サワシリン錠」(※治療後の感染を予防する薬)という抗生物質も同時に服用したが、こちらには目に見えるような効果は期待できない。シクシクと痛み出したのは、15分ほど前、会社に着いたころだ。ちょうど麻酔が切れる時間だった。あっという間にシクシクがジワジワに、ジワジワがゾクゾクに、ゾクゾクはジンジンへと変わり、左顎は何か別のもののような塊になっていた。

 予約をしていた9時半前には歯医者に着いた。歯を抜かなくてはならない、ということは先週宣告されていたから、ある種の覚悟はできていたのだが、なぜか落ち着かない。注射が嫌いだという訳ではないのだが歯医者の麻酔注射だけは別だ。口の中に針を突き刺すというのは、どう考えても気持ちのいいものではない。ホソダ部長は待合室の端で、大きな体を丸めていた。彼は30数年前にも歯を抜いたことがあった。


 あれは、大学1年生の時だった。ホソダフトシは歯医者で虫歯になったおやしらずを抜いた。10代の回復力は抜群だ。抜いた後にできた大きな穴には、すぐに薄い膜ができた。この薄い膜がかさぶたのように固まっていき、傷は次第に癒えるのだが、彼は若さを過信してしまった。歯医者さんには「おやしらずを甘くみてはいけないよ。今日だけは安静にしていなさい。急激に力を入れることはくれぐれも避けるように」と言われていたのだが、『もう、血は止まったさ。大丈夫!』とばかりに、その言葉を右から左へと流してしまった。

 結局、その日は、男女数人でボーリングに出かけることになった。『ボーリングなら踏ん張ることもない』と高をくくっていたのだが、大きな落とし穴が待っていた。ボーリングを3ゲームずつ消化した後、クラスメイトのミズタが叫んだ。「今度はあのゲーム、やろうぜ」ミズタの視線の先には、大きな赤いボクシング用ミットがあった。女子は興味深そうに見つめている。パンチングゲームだった。ミット目がけて思い切りパンチを繰り出し、その力、衝撃の重さを競うゲームだ。ミットを殴るとその衝撃がキロ単位で表される。赤いドットの大きな掲示板があり、その横には過去の記録が10位まで、名前と共に表示されていた。

 ホソダフトシは高校の頃、柔道をやっていたせいもあって、腕力には自信があった。身長は165センチと小柄だが、重そうな筋肉がついたガッチリとした体格だった。50歳の現在は、筋肉のほとんどが脂肪へと変わり、ホソダフトシという名が彼の姿と相まって、微妙な雰囲気を漂わせるようになっていた。「名字が細いんだから、名は太くいかなきゃなんねえ」と、父親が母親の反対を押し切って命名した。当然のごとく、本人は長いこと悩んだ。「何でこんな名前を付けたんだ。ぼくは一生笑いものだ」だが、彼は自身の道を切り開き、多くの人に愛される笑顔を持った少年、そして、青年へと成長していった。

 ホソダフトシは散々な結果に終わったボーリングの後に、挽回のチャンスがやってきたとほくそ笑んだ。ほのかに好意を寄せていたヨシコさんもいる。『いいところを見せたい!』ホソダフトシは、おやしらずを抜いたことなど忘れてゲーム機の前に立った。『よし!』気合を入れた彼は右腕に全力を込めた。体全体を使って右腕を振った。拳(こぶし)がミットのど真ん中にめり込んだ。ものすごい衝撃だ。ドン!という音と共に掲示板はそれまでの最高値を示した。「すげ〜!」「ホソダくん、かっこいい〜」という声を聞きながらホソダフトシはうずくまっていた。口を押さえている。「どうした、ホソダ!」空気が一変した。心配そうに覗き込む仲間たちを見上げると、彼はモゴモゴとつぶやいた。だが、言葉にはならなかった。口の中は弾け出た血液で一杯になっていた。渾身の力で振り出したパンチの衝撃で、口の奧にできた穴を塞いでいた膜が破れ、ものすごい勢いで血が溢れ出したのだ。一度破れた膜は簡単には再生しなかった。結局、彼は次の日の朝まで、口に溜まり続ける血をペッペッと吐き出さなければならなかった。

 『あの時はひどい目にあったなあ…』その時だった。「ホソダさ〜ん、どうぞ」歯科衛生士の声がした。以前、自衛隊病院に勤務していた凄腕ドクターが彼の担当だった。『先生の腕に間違いはない。お任せしよう』ホソダ部長はそっと目を閉じた。次の瞬間、注射針が歯茎に突き刺さり、鋭い痛みが走った。針は目的の歯の周りを5ヶ所ほど突いた。麻酔薬はあっという間に歯茎に沁みこみ、痛みを包み込んだ。抜歯には1時間以上かかったが、うまくいったようだ。彼はホッと胸を撫で下ろした。

 ホソダ部長は待合室で15分ほど休むと歯医者を後にした。ゆっくりと歩き、近くの喫茶店に入った。もうすぐ昼時だ。食事はしてもいいとのことだったが、まったくそんな気は起こらなかった。それに、まだ、麻酔も醒めてはいない。アイスコーヒーを頼むとストローで少しずつ喉に流し込んだ。緊張のせいか、やけに喉が渇いていた。


 会社に着いたのは昼休みだった。『腫れているだろうか』ホソダ部長は着くなり、トイレに入って鏡を覗き込んだ。手で触ってみると、かなりの腫れが確認できるのだが、見た目には違和感はない。顎には感覚が戻りつつあった。と同時に痛みもシクシクと顔を出し始めていた。歯を抜いて顎が腫れていること自体、決して恥ずかしいことではないのだが、人は顔の異変には敏感に反応する。できれば、悟られずに済ませたい。『これなら、気付かれることはないだろう』立派な二重顎が、歯茎の腫れをカムフラージュしてくれていた。

 ホソダ部長は机の上にあった書類に一通り目を通すと、大事なことを思い出した。『そうだ、早くノリオに知らせてやらないと』彼は、昨日の会議で決まったことを、一刻も早くノリオに伝えたくなった。昨夜、電話で話そうか迷ったのだが、直接伝えることにしたのだった。目にかけているノリオの喜ぶ顔が見たかったからだ。ホソダ部長は、ジワジワ言い始めた奥歯を気にしながら、近くの席で仕事をしていたヨウヘイに声をかけた。「ヨウヘイ、ノリオを呼んでくれ」昨日、ホソダ部長と共に会議に出ていたヨウヘイは、待ってましたとばかりに微笑んだ。内容を知っているヨウヘイも、一刻も早くノリオに伝えてやりたくて、ウズウズしていたのだ。『あいつ、どんな顔をして喜ぶだろう』ヨウヘイは「はい!」と返事をするなりノリオの元へと急いだ。


 ノリオは非常階段の手すりにもたれて空を見ていた。『クビかもしれない…』『しょうがないや、また一からやり直せばいい』『何を言われても絶対に耐えてみせるぞ』今度こそ、とノリオは性根を据えた。そして、踵(きびす)を返すとしっかりとした足取りで一歩を踏み出した。その顔は、どんなに大きな困難にでも、立ち向かおうとする男のそれだった。(つづく)


(C)2008 SHINICHI ICHIKAWA
-------------------
PAGE TOP
目次
ESSAY TOP
BBS
HOME