<百二十一の葉>
ノリオの日常
オラ!(十)

 『もし、あの婦人が通りかからなかったら…』
時間が経ち、落ち着きを取り戻すにつれ、ノリオの脳裏には空恐ろしい情景が次々に浮かんできた。それらは、心に深く刻まれた映画のシーンのように鮮明な映像となって現れてくる。ノリオにとっては女神とも言うべきあの婦人が通りかかっていなかったら、はたして、彼はどんな状況に陥っていただろうか。『本当にラッキーだったんだ…』ノリオは考えれば考えるほど、危機を脱することができたという事実と偶然通りかかったあの婦人に、感謝の念を抱かずにはいられなかった。婦人が通りかからなかったとして、財布を抜き取った後の娘ふたりの振る舞い、そして、慌てに慌てた自分が取ったであろう行動がとりとめもなく頭の中をめぐっている。平和の国の住人にとっては、ともすると夢幻だったのかもしれないと疑ってしまうような非日常の出来事だ。ノリオはここに来てやっと、現実を受け入れられるようになった。そして、かき消してしまいたい忌まわしい出来事を整理してみようと思い始めた。


 『もし、あの婦人が通りかからなかったら…』
ノリオは、まず婦人が現れなかった場合を想像してみた。財布を手に入れたら、もうノリオに用はない。ふたりは、ノリオに感付かれる前に姿を消そうとしただろう。急に動きを止め、キョトンとするノリオに対し「あなたの勝ちよ、もうあきらめたわ」と笑って立ち去っただろうか。「ばかやろう!」と悪態をついて後ずさっただろうか。いや、顔を見合わせていきなり走り去ったかもしれない。いずれにしろ、一瞬のうちにノリオの目の前から消え失せたに違いないのだ。ノリオはどの時点でウエストポーチが開いていることに気付いただろうか。あの婦人の声を聞くまでは疑いの気持ちさえなかったのだから、すぐに気付いたとは思えない。かと言って、食事が終わって支払うときになって初めて気付いたなんてこともなかっただろう。気配というものがある。すぐにではなくとも、気付くのにそうは時間がかからなかったはずだ。いずれにせよ、「しまった!」と焦ったノリオがふたりを追っても、追いつく可能性はかなり低かっただろう。ふたりはプロだ。そして、何より地の利がある。


 『もし、ふたりが離れる前に財布がないことに気付いていたら…』
「財布を返せ!」なんて言っても通じる訳はない。事前にスペイン語で財布を何と言うのかなんて調べて渡西する日本人がどれほどいるだろう。「財布を返してください!」なんてスペイン語は、どの旅行ガイドにも載っていない。英語ではWallet(ウォレット)、あるいはPurse(パース)だが、急に出てくるほど馴染みのある単語ではない。いや、たとえ出てきたとしても、スペインでは、まず、英語は通じないと思った方がいい。ウエストポーチを指差して「返せ!返せ!」と叫んだとしても、ふたりはしらばっくれたに違いない。「冗談じゃないわ、どこに証拠があるのよ?」ふたりにしてみたら、こんな状況は想定内だ。怯(ひる)む訳がない。それどころか、「調べるなら調べなさいよ」と開き直られたらどうだ。公衆の面前で女性のスカートの中まで調べる訳にはいかない。当然、これもふたりの想定内だ。「私たちが何かしたの?」としおらしく泣き出されたとしたらどうだろう。更に、「あらぬ疑いをかけられた…」と号泣でもされたら…。ノリオには、なす術(すべ)がなかったはずだ。日本男児は、こんなときに強く出るように育てられてはいない。こうなったら頼りになるのは警察だけだが、これもやはり、時間の壁に阻まれていた可能性が高い。近くにいたタカギさんがヨウヘイたちの元に走り、どうにかして警察を呼んでいたとしても、娘ふたりの頭にはその時間など当然のようにインプットされていただろう。ふたりは、あらゆる状況に対応できるプロなのだ。ノリオひとりを振り切ることなど造作ない。


 『もし、逃げるふたりに追いついていたら…』
ノリオが逃げるふたりを全速力で追いかけ、ふたりのうちのひとりに追いついたとしよう。ノリオは腕を掴む。「こいつ!」強く握り締めたら最後、その行為は暴力とみなされてしまう。ふたりは一転して被害者の立場でノリオに相対してきたに違いない。腕を抱(かか)え「痛い…痛い…」と泣き出し、苦しみ出せばいい。ここでもノリオには何もできない。その前に、走って追いつけたかという疑問がある。運動会で下半身が付いていかずに無残に転げるお父さんたちの姿を想像して欲しい。普段全速力で走ることのないノリオも気持ちだけが前に行き、足元はおぼつかず、段差か何かに躓(つまず)いて思い切り転んでいたかもしれない。肘や顔を擦りむき、ひどい打撲(だぼく)でうずくまるのが落ちだ。そのうちに、どこからともなく仲間が現れることも考えられた。仲間には屈強な男たちもいるだろう。ナイフやピストルを隠し持っている場合も考えられる。数人の男たちに囲まれ、いずれかに連れ去られる危険がなかったとも言い切れない。


 結局のところ、ノリオは途方に暮れて日本大使館、あるいは総領事館に泣きつくしかなかっただろう。そして、ひとり、バルセロナに取り残され、どのような思いで数日を過ごさねばならなかったか…。想像しただけでも胸が苦しくなってくる。レストランでノリオの前にそっと差し出された旅行ガイドの後ろのページには『盗難・紛失の場合、トラブル別対処法』と書かれた項目があった。それによると、現金はまず見つからないと思った方がいい。クレジトカードは一刻も早く無効にしてもらう必要がある等と書いてある。ノリオはクレジットカード会社の電話番号を控えてはいなかったし、すぐに調べられる訳もない。パスポートの再発行は更に面倒だ。警察に届け出をして盗難証明書を発行してもらい、日本大使館で再発行を申請する。盗難証明書の他に写真が2枚、身分を証明する書類 (パスポートのコピー、運転免許証、保険証) を添えること…。これでは、沈んだ気持ちに追い打ちをかけられるようなものだ。どんな気持ちで写真屋を探せと言うのだ。このほか、帰国のための渡航書を申請する場合は日本への直行航空券、または航空会社、旅行会社などのフライト予約確認書の提示が求められる。どれだけの時間と労力がかかるのか…堪(たま)ったものではない。


 一歩間違えば、ノリオ自身がこのような状況に陥っていたかもしれない。どんな場合であっても、一度ノリオの手を離れてしまった財布が戻ってくる可能性は、限りなくゼロに近かったということだ。あの婦人の出現は奇蹟だった。ノリオにとっては、まさに千載一遇の幸運だった。(つづく)


(C)2009 SHINICHI ICHIKAWA
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