<百二十四の葉>
失業率

 新聞や雑誌に興味深い話が載っていると切り抜くようになったのは、二十年ぐらい前からだろうか。ファイルしてあるものもあれば、手帳やノートに貼り付けてあるものもある。クリヤーホルダーに無造作に入れたもの、本に挟んだものもある。きちっと整理されているとは言い難いが、それでもエッセイの種となって苦境を救ってくれたことが何度もあった。切り抜きを始めた当初は、今のようにエッセイを書くようになるなんて夢にも思っていなかったから、どんな理由で切り抜きを始めたのか考えようとしたが、考えるまでもなく答えはすぐに浮かんできた。感動したとか、ショックを受けたとか、その都度、理由は様々だが、根底には常にひとつの共通した意識があった。「忘れてしまってはいけない」という思いだ。人間は忘れる動物だ。いい意味でも悪い意味でもよほどのことがない限り、記憶は時間と共に色褪せてしまう。いつかまた思い返さなくてはいけない、あるいは、思い立ったときすぐに読み返せるように、という思いがぼくにハサミを握らせた。

 最近の切り抜きを眺めていると、失業率という言葉が目に付いた。どれだけ深刻な問題になっているのかは、テレビや新聞を見ていれば分かる。今回は、この失業率がテーマだが、まさか経済を語ろうという訳ではない。あくまでも、新聞記事を通してぼくが感じたことが切り口となる。さて、失業率とはなんだろう。何となくイメージして日常的に使ってはいるが、正確な意味を考えたことはない。確か、高校時代に現代社会という科目があって勉強したように思うが覚えているはずもない。

 ちょっと調べてみたが、やはり、定義からして簡単ではなかった。失業率(完全失業率とも言う)とは、労働力人口(就業者と完全失業者の合計)に占める完全失業者の割合のことで、(完全失業者÷労働力人口)x100で表される、とある。3.5%とか9%とかで表される数字がそれだ。失業率は総務省統計局が実施している労働力調査によって毎月公表されている。恥ずかしながら、ぼくは総務省統計局という名も、この役所が毎月必ず労働力調査を行っているということも知らなかった。全国全世帯の中から無作為に選定した約4万世帯に住む15歳以上の世帯員約10万人に対して調査票を配布しているという。ぼくはそんな票を受け取ったことも、受け取ったという人に会ったこともない。「調査期間中に少しでも仕事をしたか、しなかったか」という質問に対して、「した」か「しなかった」で答える。調査期間中に収入のある仕事を1時間以上していれば「した」と答え、“従業者”とみなされる。「しなかった」と答えた人は、“完全失業者”か“休業者”、あるいは“非労働力人口”となる。完全失業者とは、以下の三つの条件をすべて満たす人のことだ。

◆仕事がなくて調査期間中に仕事をしなかった
◆仕事が見つかればすぐに就職できる
◆調査期間中に仕事を探す活動や事業を始める準備をしていた

 つまり、「仕事はしていないけれど、働く意思があって仕事を探しており、仕事があればすぐに就業できる人」のことだ。むずかしいのは、ただ単に仕事をしていないだけでは失業者とはみなされず、求職活動をしているという事実が必要だという点だ。ちなみに、“休業者”とは仕事には就いているが、休暇中、あるいは病気療養中等の理由で仕事をしていない人のことで、“非労働人口”とは学生や専業主婦、定年退職した高齢者のように、仕事をしておらず働く意思もない人たちのことだ。調査票の質問に「1時間でも仕事をした」と答えた“従業者”と「しなかった」と答えた“休業者”を合わせて“就業者”といい、この“就業者”と“完全失業者”を合わせて“労働力人口”という…。感覚的には理解できても、時に、改めて言葉で説明されると戸惑ってしまうということがある。まさにそんな感じだ。続けよう…。更に、同じ学生でも調査期間中にアルバイトをしていれば“就業者”としてカウントされてしまうし、主婦もパートで働いている場合は就労時間や収入の多寡に関わらず“就業者”にカウントされるというから、失業率を正確に捉えるのは至難の業ということになる。

 近年、社会問題となった「ニート」とか「引きこもり」と呼ばれる人々の分類も難しい。有給就業、または自営就業のために特別な手だてをしていない、という理由から統計上は“失業者”とはみなされないそうだ。働こうという意思が感じられないということだろう。もっと言ってしまえば、統計の取り方は国によって様々で、例えばフランスだと現在はホームレスでも職業安定所に登録していれば“失業者”としてカウントされるが、日本だとホームレスやネットカフェ難民等は調査票を受け取ることができないという理由で統計から洩れてしまうそうだ。


 5月の新聞に載っていた記事の切り抜きには「2009年4月、日本の完全失業率は5%台に達した」とある。その波は今年になってじわじわと上がり続け、過去最悪の5.5%に迫っている。過去に年平均が5%台になったのはバブル崩壊後の2001年からの3年間だけだというから、かなり深刻な状況だ。だが、数日後には同じ新聞に次のような記事が掲載された。ぼくは、この記事を読んで改めてこの問題の根深さを思い知った。大筋はこうだ。福島に本拠地を置きチェーン展開しているラーメン屋が、昨年の12月に「雇用環境が厳しい時にこそ社会に役立ちたい」として150人の中途採用に踏み切った。さすがに500〜600件の問い合わせがあったという、。だが、立ち仕事であることや、転勤があること等を説明すると多くの人が途端に消極的になってしまい、結局のところ、採用されたのは60〜70人にとどまったというのだ。「やはり日本は豊かだ。本当に食い詰めているわけではない」ある関係者のつぶやきを目にするとため息が洩れてしまった。


 前段に、統計の方法は国によって様々だと書いた。したがって比較は慎重に行わなければならないが、数字だけをみれば日本の失業率は欧米諸国を下回っている。だが、この記事はそれとはまったく違う次元で、日本にはまだまだ余裕があるということに気付かせてくれた。そういえば、日曜に配達される朝刊の折り込みに求人広告を見つけなかったことがあっただろうか。リストラの憂き目に会った年配の方々や必然的に職を選ばなくてはならない人たちがいることも知っている。求人があっても年齢制限で応募できない人たちがいることも知っている。それでも、そうした本当に困っている人たちとは別に、仕事がないだの、国が悪いだの云々言っている人の中には、仕事の選り好みをしているとしか思えないような人たちもいるということ、そして、実際の失業率にはこんな面も隠されているのだということを伝えたかった。今、ここで世界の失業率について書く気にはなれない。たとえ、ほんの一部であっても、応募してきた求職者のうち80%〜90%の人たちが仕事の内容を聞いて自ら手を引いてしまったという事実が、日本の失業率の側面を物語っている。


 ぼくは、本当の貧困がどんなものだか知らない。分かると言ったら嘘になる。飢えて死んでいく人たちの苦しみを…、生きるために親を捨て、娘を売らなければならなかった人たちの辛さを…分かる訳がない。この国にもそんな、想像するだけでも胸が痛くなるような貧困の時代があった。そして、それは、ぼくのおじちゃんやおばあちゃんが若かった頃の話、たかだか2世代前までの話なのだ。父や母が少年、青年時代を過ごした戦争中の悲惨な話を聞いても、映画を観るかのようにピンとこないぼくたち高度成長期世代の大人たち。貧苦の厳しさ、辛さを知らないぼくたちが最高齢になるころ、この国はいったいどうなってしまうのだろう。世界を見渡すと現在でも本当の貧困に苦しむ大勢の人たちがいる。それを事実として知っているぼくたちは、貧しいという言葉を簡単に使ってはならない。


(C)2009 SHINICHI ICHIKAWA
-------------------
PAGE TOP
目次
ESSAY TOP
BBS
HOME