<百三十五の葉>
脳の不思議

 『物忘れがひどくなった…』『疲れやすくなった…』『最近飽きっぽい…』『集中力が続かない…』これらすべてが当てはまるようになるのは、いったいいくつぐらいからだろうか。歳を重ねると誰でもこのように感じるものなのだろうか。

 もちろん、これらはお年寄り限定の言葉ではない。誰でも風邪をひいたりして体の具合が悪くなると疲れやすくなるし、“飽きっぽさ”とか“集中力のなさ”は、物心付く前の子供や無気力な若者に対しても使われる。我々日本人…いや、日本人だけではない、世界中の人たちが、歳を取ると肉体的にも精神的にも衰えていくと漠然と思っている。このことは、長きに渡って人類の常識とされてきたと言ってもいい。確かに老化現象と言われる肉体的衰えがあることは事実だ。皺(しわ)ができる。シミができる。髪が白くなる、薄くなる。背中が丸くなる。お腹が出る。足腰が弱くなる。老眼で近くの文字が読めなくなる…等々。我々の肉体は確実に、そして、例外なく日々衰えている。

 厳密に言うと、老化は20代前半から始まっているそうだ。酷なようだが、10代の子も若いからといって安心はしていられない。若さもある意味、才能のひとつだと思う。だが、この才能は肉体的な部分に概(おおむ)ね限られ、あっという間に使い果たされてしまう。人は30歳を過ぎて初めて本当の顔を持つ、と言われる所以(ゆえん)だ。だから、若いうちにこそ心や精神を鍛えたい。心や精神に宿るのは、生涯消えることのないもうひとつの若さとも言うべきものだ。もっとも、ぼくもこの歳になったからこそ、こんなことを言えるのかもしれない。

 “脳も老化する”と考えられてきた。だが、近頃は違った角度から考えられるようになってきた。脳科学は、まだまだ解明されていないことが多いこれからの分野だ。そもそも脳について本格的に研究が進められるようになったのは比較的最近のことだ。脳の働きに関しては、20世紀前半までは迷信の類(たぐい)が大手を振って歩いていた。少しずつ、少しずつだがいろいろなことが解ってきた。脳はすごい!ここからは、歳を重ねた人、そして、これから重ね行く人にとって勇気100倍の話を書いてみたい。


 人間は一生を費やしても脳を半分も使っていないという話を聞いたことがあるだろう。ぼくも初めて聞いたときは驚いた。脳の半分以上が使われないままで終わってしまうというのだ。余力を残し過ぎじゃないのか、なぜそんなことが、と不思議に思ったのを覚えている。つい最近、もっとおもしろい話を聞いた。“脳は老けない”“疲れない”というのだ。ある脳科学者は言う。「脳は常に変化しながら成長し続けます。最近では、116歳で亡くなった女性の脳を解剖したところ、ほとんど衰えていなかったという報告がありました。」ぼくは次の言葉を待った。「しかも、脳は使えば使うほど良い状態に成熟していくのです。」脳の中はいつもダイナミックに動いていて、昨日と今日どころではなく、数分経っただけでも神経回路の繋がり方が変わっているというのだ。「一瞬一瞬ごとに発火しながら、神経回路を作り直して成熟に向かっています。」「いろいろな経験を積んでいる脳は魅力的です。脳から見れば加齢は素敵で楽しいことなのです。若い脳より成熟した脳の方がだんぜん魅力的です!」なんて、夢のある話なんだ。いや、夢や願望ではない。これこそが本当の話なのだ。この話をおおまかにまとめてみよう。

 脳は、ニューロンと呼ばれる神経細胞からシナプスという長い手のような回路が伸びて、他のシナプスと結んだり離れたりして成長しているという。これを“道”に例えてみると、若い脳は、たくさんの裏道が張り巡らされている小さな町のように、行き止まりや擦れ違えないような小道が入り組んでいてごちゃごちゃしているイメージ。それに比べて、成熟した脳は、大きな町と町を結ぶ高速道路のように太くしっかりとした道路でつながれているイメージだ。つまり、若いころは頭の中にたくさんの道があって、常に迷いながら生きているが、年月と共に様々な経験を積み不要な道は消え、必要とされる道のみが残り、大きく太く成長していくというのだ。言われてみると、なるほど!納得できる。『四十にして惑わず』とは正にこのことだ。人生における経験が、脳を活性化させ、迷いのないしっかりとした脳を作るということになる。その上、脳の成長には終わりがない。生きている限り、秒刻みで変化し続けているのだ。


 さらに、ぼくは、脳が体全体を支配していると思っていた。だが、これも先入観による決め付けでしかなかった。脳と体はイーブンの関係だったのだ。脳自体は頭蓋骨の中にあるから、外部と繋がる体や五感を通してでなければ刺激を得ることができない。脳は体から信号を受け取り、その情報に従って体に指令を出す。つまり、脳と体は常にキャッチボールをして刺激しあっているのだ。例えば読書。歳を取って集中力が落ち本も読めなくなると脳のせいにしがちだが、疲れるのは脳ではなく体だったのだ。脳科学者は言う。「日頃から読書する姿勢を保つ筋肉や目の健康を維持していれば、何歳になっても脳は喜んで読書についていきます。」

 ただ、脳の成長には条件がある。脳にきちっとした栄養を与え、健康に保つ必要があるということだ。タンパク質、炭水化物、脂質をバランス良く摂り、適度な運動によて筋肉を鍛えることで脳は活性化する。こうと知ると、誰もが脳をいつまでも最良の状態にしておきたいと願うはずだ。それには、特別なことは必要ない。当たり前の食事と適度な運動、そして、もうひとつ忘れてならないのが、『脳よ、君は老いないのだよ』と脳自体に知らしめることだ。


 最後に、脳科学者からぼくたちの明日へのアドバイスをひとつ。「豊かに日々を重ねるほど脳は成熟します。楽しくない時でも、顔の筋肉を笑顔のように動かしていると、脳は楽しいんだなと勘違いして楽しい時に分泌するホルモンを増やします。」コンピューターをも凌ぐ能力を持つ脳にしてこれだ。やっぱり人間はいいなあ。


(C)2009 SHINICHI ICHIKAWA
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