<百四十三の葉>
柔(やわら)の道

 2010年の幕が開いた。今年はどんな年になるだろうか。毎度のことだが、この時期には国中が新鮮な空気で満たされる。これから始まる1年を前にして、大きかろうが小さかろうが何かしらの希望を持たずにはいられない。『あれをこうして、これをああして…』ぼく自身はよっつほど目標を立てた。内容は秘密だがいくつ達成できるか。今から楽しみだ。

 さて、今年最初のエッセイ。何を書こうか考えた。やはり年頭に相応しいものがいい。そんな時、ある柔道家の顔が浮かんだ。柔道という武道の世界に身を置く若き女性のことを書こう。彼女の生き様は文句なくかっこいい。

 女性柔道家で、まず思いつくのは谷亮子だ。呼び捨てにするのは忍びないが、さん付けではおかしいし、谷亮子選手ではスポーツや格闘技になってしまう。もちろん、柔道はスポーツでもあるし格闘技でもあるから、まったく問題はないのだが、このエッセイでは武道としての柔道にこだわりたい。失礼ながらこのエッセイではすべての柔道家を姓名のみで記させていただくことにする。どうかお許しを…。谷亮子は言うまでもなく超一流の柔道家だ。人気、実績ともに群を抜いている。ぼくにとっても大好きな柔道家のひとりなのだが、今回は彼女の話ではない。


 柔道においては、オリンピックと並ぶ重要な大会として柔道世界選手権がある。世界選手権は2007年までは2年ごとの開催だったが、2008年からは毎年開催されるようになった。ただし、オリンピック開催年は非五輪種目の無差別級だけの大会となる。このふたつの大会の代表になることは、柔道家にとって名誉であり最大の目標だ。2009年の世界選手権はオランダのアホイ・ロッテルダムで行われた。63kg級の代表、世界選手権初出場の上野順恵(よしえ)が今エッセイの主人公だ。彼女は1983年生まれの26歳。柔道界でも有名な上野3姉妹の次女で、アテネオリンピック、北京オリンピック70kg級で連覇した上野雅恵を姉に持つ。


 彼女の階級である63kg級には女王谷本歩実が大きく立ちはだかっていた。谷本は常に一本を取りに行く姿勢と豪快な投げ技が身上で、一本背負いを得意技としているところから女三四郎の異名を持っている。谷本も上野雅恵同様アテネ、北京と連覇した実力者だ。オリンピックで連覇した柔道家は、他にも谷亮子、斉藤仁、野村忠宏、内柴正人がいるが、オール一本勝ちでの連覇という快挙を成し遂げたのは谷本だけだ。日本柔道では一本勝ちと判定勝ちとでは意味合いが大きく違う。常に一本を取りに行くのが日本柔道の真髄なのだ。上野順恵はカイロ世界選手権(2005年)と北京オリンピック(2008年)の代表選考会決勝で、谷本を破って優勝したにもかかわらず代表に選ばれることはなかった。勝つには勝ったが僅差の判定勝ちというのが問題だったのだ。実績ある谷本に一本勝ちしていたのなら文句なく代表に選ばれていただろう。だが、上野順恵は真の意味で勝ちきれなかった。“一本を取れない”“勝ちきれない”これが彼女の代名詞だった。やはり柔道家である上野の両親は、彼女の気持ちを慮(おもんばか)って伝えた。もう、辞めてもいいんだよと。


 理由は何であり、選考会で勝ったのに代表に選ばれなかった側としては納得できるはずがない。それも2度だ。よく心が折れなかったものだ。勝つだけが柔道ではないと思うが、『勝っても出場できないなんて不条理だ』と柔道界を飛び出してもおかしくない話だ。それでも彼女はあきらめなかった。次へと新たな一歩を踏み出したのだ。敗れて代表に選ばれた谷本歩実は、両大会でオール一本勝ちの優勝を果たした。上野も納得せざるを得ない。谷本もすごい。


 上野順恵は“不遇”の柔道家だと言われ続けたが、2009年の世界選手権代表選考会を兼ねた全日本体重別の決勝で谷本を降(くだ)し代表キップをつかんだ。一本勝ちとはいかなかったが、延長で技ありを奪ったのだ。彼女は体重別5度目の優勝にしてようやく世界選手権代表に選ばれた。上野は2009年2月に相次いで行われたフランス国際、ドイツ国際でも連続優勝、世界ランキング1位として8月の世界選手権を迎えた。

 1回戦の相手はウクライナのチェプリナ。払い腰で有効を奪いそのまま崩れ上四方固めで一本勝ち。勝っても飄々(ひょうひょう)としていた。『準備万端、やることはやった。あとは戦うだけだ』とでも言わんばかり。研ぎ澄まされた集中力。全身から覇気がほとばしっている。『朝飯前とはこのことだ』『ブルドーザーで雑草を刈るがごとく』こんな言葉が思い浮かぶほどの圧勝だ。

 2回戦はスロバキアのコムロシオワ。大外刈りで有効。大外刈りで技あり。大外刈りで一本!大外刈りが冴え渡る。相手は来ると分かっていても止められない。圧勝!勝って当然と先を見据えた目が印象的。

  準々決勝は韓国のコン・ユウウ。あっという間の大外刈り一本!何という技の切れ味。相手の体重が左足に乗った瞬間、上野の左足が舞った。鋭い左足はコン・ユウウの左足どころか右足までも同時に刈った。ズドドオン!!受け身のとれないコン・ユウウはまっすぐ背中から倒れ後頭部をしたたかに打った。脳震盪でもおこしたのではないかと心配してしまうほどだ。それほどまでに完璧な技。ベスト8に勝ち上がってくる選手を完膚なきまでに叩きのめしてしまった。顔が自然に綻(ほころ)んでいる。『勝ち切れない、一本は取れない』と言ったのは誰だ。試合平均1分足らずの快進撃は続く。

 準決勝はロシアのベラ・コワル。彼女も3試合連続一本勝ちで上がってきた。怪力柔道が持ち味だ。手強そうだなと心配して見ていたが何のことはない。相手はビビッて及び腰だ。大外刈りで有効。大外刈りで技あり。そのまま押さえ込み。圧勝!一方的な試合。次は誰だ!

 決勝は地元オランダのスター、ウィルボールズ。北京の銅メダリストだ。だが、上野に気負いはない。無心なのか。剣豪の立会いのようだ。相手は大外刈りを警戒している。警戒?なんだそれは。これを待ってるのか?ならば喰らえ、えい!とばかりに大外刈りだ。ウィルボールズはキョトンとした顔で倒れた。勝負あった。…なんだ?上野の顔を見ろ。大外刈りが決まった瞬間から笑っているではないか。試合はまだ終わっていない。本当に笑っているのか?…確かに笑っている。いや、単に笑っているのではない。心の底から笑みが湧きあがってきているのだ。体の芯から笑みが押し寄せているのだ。笑っているのに笑っていないとしか表現できないような顔…。上野は勝ちながら笑っていた。どん底を乗り越えた26歳の渾身の笑顔がただただ輝いていた。


 5試合すべて一本勝ち。見事な優勝だった。それでも武道家は勝ち続けなければならない、上野順恵の柔(やわら)の道はまだまだ続く。谷本歩実だって黙ってはいないはずだ。我々は、結果の“受け止め方”を学ばなければならない。受け止め方ひとつで人生は変わる。めげず、くさらずと言うのは簡単だ。だが、マイナスの結果を正面から受け入れるのは容易ではない。日々の努力や精進の裏付けが、上野をして「もう少しがんばってみる」と言わせたのだ。上野順恵の勝利を、そして笑顔を心から讃えたい。大外刈り万歳!!


(C)2010 SHINICHI ICHIKAWA
-------------------
PAGE TOP
目次
ESSAY TOP
BBS
HOME