<百四十六の葉>
移ろい

 数日前、NHKの番組で、五世代で暮らす家族の日常が紹介されていた。五世代とはすごい。どれだけすごいかというと、例えば…ぼくを五世代目として遡(さかのぼ)ってみよう。父と母が第四世代で、父母の親の世代であるおじいちゃん、おばあちゃんたちが第三世代。そして、祖父母たちの親の世代が第二世代だから、第一世代とは、おじいちゃんのお父さんのそのまたお父さんのこと、つまり、ぼくのおじいちゃん、おばあちゃんにとってのおじいちゃんとおばあちゃんたちの世代ということになる。第四世代を曾祖父母、第五世代は玄祖父母という。

 曾祖父母のことをひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんと言うが、ぼくの生まれた地方では曾祖父母のことを“としょ”と言う。このことは、2006年8月20日に発表した二十七編目のエッセイ“ひいひいひい”でも触れた。…2006年?あれを書いたのはもうそんなに前になるのか。4年前も同じように机に向かっていたのだなと思うと不思議な感情に包まれる。さて、この“としょ”だが、どういう字をあてるのかは未だに謎だ。千葉県内では他にどの地域で使われているのだろうか、はたまた、他県でも同じような使い方をしているのだろうか。

 玄祖父、ぼくのおじいちゃんのおじいちゃん…なんて考えると気が遠くなるような昔を想像してしまう…。いや、申し訳ない。ぼくを第五世代とすることに大きな無理があった。自分自身を第四世代か第三世代に設定すべきだった。そうでなければならなかった。そうすると、まるで違った景色が見てくるはずだ。ぼくと同世代で孫がいる人もめずらしくはないのだ。よし、ある女性が25歳で子供を産んだとしよう。その女性の母親、そのまた母親、その人のまた母親が皆25歳で子を生んだとすると、それぞれが0歳、25歳、50歳、75歳、100歳ということになる。これは十分にありうる。似た形が、冒頭で触れた五世代の家族だ。そういえば、100歳の双子でブレイクしたきんさんとぎんさんにも玄孫(やしゃご)がいた。更に、もし、代々の女性が20歳で子を産んだとすると0歳、20歳、40歳、60歳、80歳となる。玄祖母の80歳はまだ若い。こうなると更に上の世代の100歳も考えられる。だが、あくまでも計算上の話だ。現実的に六世代の家族を捜すのはむずかしいだろう。


 ぼくは玄祖父母(五代前)はもちろんのこと、曾祖父母(四代前)にも会ったことがない。お墓参りに行ったときに手を合わせるくらいの存在だ。ひとりを除いて名前も知らない。写真が残ってさえいれば顔を見ることはできるが、時代が時代だ。多くは望めない。さて、曾祖父母の名前を知っている人はいったいどれくらいいるのだろうか。ひいおじいちゃんやひいおばあちゃんが、誰もが知っているような有名人だったのなら話は別だが、たぶん、ほとんどの人が答えられないだろう。五代遡るとどんな人だったのか顔も分からないし、四代前でも知っているのは写真の中の顔だけ、つまり、四代前の“としょ”から上の世代は皆、先祖の一員として一括(ひとくく)りの枠の中に収められてしまうということになる。


 けれども、これからは変わっていくかもしれない。デジタル化されたカメラやビデオのおかげでクリアな映像が半永久的に残せるようになった。顔や姿はもちろんのこと声や佇まいまでもが残されるのだ。この分野の進歩はものすごいスピードで進んでいる。今後、どのような形でデータを残せるようになるか想像もつかない。100年後、1000年後の人たちは五世代前や六世代前の人たちどころか、はるか昔の先祖たちの顔や性格を知ることができるようになるだろう。昔とは言っても、遡ぼれるのはカメラが発明された19世紀あたりまでだと思うが、実用的なタイムマシンが開発されないとも言い切れない。

 確かに、過去の人物の実際の顔を知るというのは魅力的だ。自分の先祖ではなくても聖徳太子や信長、秀吉、家康の顔を見てみたいという気持ちはある。だが、どう考えても現時点では不可能だ。それでも、数少ない記録や絵、語り継がれた物語から多くのことが分かるようになった。その過程にこそ浪漫がある。

 しかし、これからは映像を残せるせると聞いても、後世の人たちをあまりうらやましいとは思わないのはなぜだろう。未来において、映像で先祖を知るのは、映画やドキュメンタリーを観る感覚に似ているのではないだろうか。ぼくはそう考える。いつの時代になっても大切なのは、肌の温もりや優しい眼差しだ。言葉を交わし、同じ時間を過ごした人たち、体温を感じた人たちのことは決して忘れない。

 20世紀は哀しく残酷な時代でもあったが、前へと向かうエネルギーには凄まじいものがあった。21世紀になると、一度立ち止まって振り返ってみようということになった。地球を守る時代の幕開けだ。我々はいい時代を生きているとは思わないか。『何を言っているんだ。我々の時代の方がどんなによかったことか』500年前の人や、1000年前の人たちは言うかもしれない。それでいいのだと思う。自分が生まれた国に誇りを持つように生きた世代にも誇りを持つ。それでいいのだ。


 人は10年後、20年後、もう一声30年後ぐらい先までは、なんとなく想像がつく。これがもし、100年先だったらどうだろう。今、0歳の子が100歳だ。簡単には想像できない。1年1年の繰り返し、一世代一世代の繰り返しの果ての100年後ならば、現在ともしっかりと繋がっているだろう。ところが、いきなり100年後となるとどうだろう。「せえの〜」で一瞬にして100年後に移動するとしたら…。現在とはほとんどの人が入れ替わってしまっている。知っている人は誰もいない。家族も友達もいない。まるで異次元の世界だ。

 一世代一世代が、ゆっくりと季節が移ろうように過ぎている。そのことを知るのは決して無意味ではない。ぼくたちは、知らないうちにたくさんのことを受け継ぎ、守り、次の世代に手渡しているのだ。移ろいとは “今”の連続だ。“今”の充実が明日の、来年の、10年後の充実に繋がる。日々が移ろい、季節が移ろう。年が移ろい、世代が移ろう。それにしても、気になるのはやっぱり天気だ。明日も晴れるか。


(C)2010 SHINICHI ICHIKAWA
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