<百五十の葉>
旅の始まり

 ミュージシャンという職業には旅はつきものだ。今年も3月から4月にかけて国内ツアーがあり、5月にはイタリア、フランスでライブをする。ぼくは、プロとして活動し始めた20代前半から、バンドのメンバーとして、また、サポートミュージシャンとして、毎年のようにツアーをこなしてきた。四半世紀、25年に渡って旅をしているということになる。国内では、47都道府県すべてに足跡を記しているし(佐渡島や淡路島でも演奏したことがある)、国外では、北米のカナダ、アメリカ。南米のブラジル。ヨーロッパではイギリス、フランス、イタリア、スペイン、ベルギー。アジアでは韓国、タイ。オーストラリアでも2度ツアーをした。六大陸で訪れていないのはアフリカ大陸と南極大陸だけだ。こうして挙げてみると、いろいろな所に行ったなあと感慨に浸りたくもなるが、まだまだ旅の途中だ。もっともっと多くの国を、そして、この国のまだ見ぬ小さな町々も訪れてみたいと思う。そんなことを考えていたら、一(いち)ミュージシャンとして歩き始めた頃のことをふと思い出した。

 19歳の時に上京してすぐにバンドを組んだ。活動を初めて3年ほど経った22歳の時、そのバンドがデビューを果たした。仕事は都内が中心だったが、時には名古屋や大阪、札幌での仕事もあった。ベースを抱えて新幹線や飛行機に乗るのは誇らしかったし、バンドのみんなと遠くに行けるということだけで楽しかった。このバンドについては『九十九ボーイ』の続編として、そろそろ書き始めようと構想を練っているところだ。詳しいことはそちらを待っていただくとして、そのバンドが解散する前後の話から始めたい。


 ぼくたちが青春を燃やしたバンドは、ビクター系列のディスコメイトレコードと契約した。シングル盤を2枚出したはいいが、芳(かんば)しい結果は残せなかった。特に、2枚目のシングルは、資生堂「Wavy Boy」のコマーシャルソングとして使われ、ヒットしてもおかしくない状況を作ってもらったにも関わらず、チャートの上位に乗せることができなかった。所属事務所は、ぼくたちのデビューに際し、ありったけの資金を注ぎ込んでしまったのだろう。1年も経つと会社の経営が火の車だということが、ぼくたちにまで伝わってきた。社長の目論見(もくろみ)は、見事に外れてしまったのだ。この社長、Sさんというのだが、人情味溢れた男気のある人だった。ぼくたちは素晴らしい社長の下(もと)、幸運なスタートを切ることができた。だが、如何(いかん)せん売れなかった。なぜ、売れなかったのか…。理由はいくつかあっただろう。だが、この売れる売れないに関しての問題だけは、未だによく分からない。ぼくが参加したバンドに限ったことではない。毎年デビューする何百というアーティストやバンドすべてについて言えることだ。売れる訳がないと言われたバンドがミリオンヒットを飛ばしたり、売れるに違いないと言われたバンドが鳴かず飛ばずであったり。まったくもって、闇夜を手探りで歩くような世界でぼくたちは生きている。


 事務所としては、バンドを抱えているということは黙っていてもメンバー分の給料や経費が出ていくということだ。収入の道をどうにか考えなくてはならない。そこで、社長は、親交のあった石川ひとみさんに「うちのバンドにバックバンドをやらせてほしい」と頼み込んでしまった。当時のぼくたちのレベルからすると無茶な話だった。社長は、ぼくたちにその大役が務まると思っていたのだろうか。いや、そうは思わない。あの社長のことだ。『こいつらにアルバイトなんてさせられるか、どうせやるなら音楽の仕事だ。勉強になればいい』そんな思いでひとみさんに頭を下げたのだろう。彼女も社長の人柄を知っていた。断れなかったに違いない。それにしても、決断には勇気が必要だったはずだ。逆に考えると、ひとみさんも、それだけ社長のことを信頼していたということになる。結局、ぼくたちは何の準備もないままバックミュージシャンの仲間入りをすることになってしまった。


 当時のぼくたちの実力はというと…。考えるだけでも恐ろしい。第一線で活躍しているアーティストのバックを務められるほどの実力があったとは到底思えない。バンドだけの活動であるならば、自分たちの曲だけ演奏していればいい。アレンジも自分たちでする。持っているテクニックの範囲内でなされるから、無理なことを強いたり、強いられたりすることはない。どうしても、自分たちの得意なリズムやフレーズに偏ってしまう。少々むずかしいフレーズがあったとしてもそれだけを毎日練習すれば、どうにか弾けるようになるものだ。バンドのリハーサルでは、新曲を練る以外は持ち曲を繰り返し練習するから、これらの曲がある程度のレベルにまで到達するのは当然のことだ。こういう毎日を積み重ねていると『最近うまくなったな』という気になってくる。ステージを見る人はもちろんのこと、周りのスタッフや自分たちでさえも錯覚を起こしてしまうことがある。『ぼくたちも、なかなかやるじゃないか』と勘違いしてしまうのだ。ところが、バックバンドの世界は想像をはるかに超えたものだった。ひとみさんのレパートリーはJ-POP、当時は歌謡曲と呼ばれていた音楽だが、演奏にはあらゆるジャンルの要素が必要とされた。一朝一夕でできることではない。第一線のアレンジャーやスタジオミュージシャンによってレコーディングされた曲を、その場で、あるいは数日で再現しなければならないのだ。ぼくたちには10年早かった。何より決定的に経験が足りなかった。


  ヒット曲「まちぶせ」はもちろんのこと「夢番地一丁目」「冬のかもめ」「パープル・ミステリー」などを演奏した。リハーサルから冷や汗の連続だった。悔し涙を流しながら付いていったメンバーもいる。1時間半から2時間のステージをこなすには約20曲は必要だ。譜面を見てもいいのだが、譜面の読み方すら分からない。これまた、社長の知り合いのギタリストであり、アレンジャーでもあるNさんが、臨時コーチとして必死に教えてくれたのを思い出す。楽器を手にして数年の若者がどんなにがんばったとしても、短期間でいきなり一流になれるはずがない。飛行機に乗り遅れ、ステージに間に合わなかったメンバーもいた。残念だが、結果としては、ひとみさんに迷惑をかけてしまった。僕たちの第一歩は苦いものとなった。ステージ後、時々見せたひとみさんの悲しい顔が忘れられない。

 社長もひとみさんもNさんも本当にいい人だった。今となってはただ感謝するばかりだが、この気持ち、少しでも伝わっているだろうか。バンドが解散してから15年ほど経って、社長に会う機会があった。はにかむ笑顔と強気な口調は変わってはいなかった。業界から去ってひとりでできる仕事をしていると言っていた。ぼくは、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。ある程度の結果を出して社長の気持ちに報いたかった。石川ひとみさんにも偶然会った。10年ほど前だろうか、仕事でNHKに行ったときだ。ひとみさんも変わらぬ優しさで接してくれた。ぼくは、改めて、素晴らしい環境の中で第一歩を踏み出せたのだなと思った。


 誰にとっても、旅の始まりとはこんなものなのかもしれない。だが、ぼくたちが目指した道、その旅に終わりはない。淡々と続いていくものだと思えるし、中間点がどこにあるのかも分からない。“旅の始まり”だけが、記憶の中で厳然と横たわっている。


(C)2010 SHINICHI ICHIKAWA
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