<百五十一の葉>
フトシ回顧録
違反者講習(八)

 ラーメン屋からのメールを一読して、携帯を畳みかけたときだった。オレは、携帯の留守番電話に、確認していないメッセージが残されていたことを思い出した。10分ほど前に鳴った電話に出なかったのだ。運転中に出ないのは当然だ。すぐ後に留守電センターから着信があったことも分かっていた。オレは、どちらかというと規則を守りたいと思う方だ。マナー違反も気になる。さて、この場合はどうだ…。停車中という事実がオレを安心させた。信号はまだ赤だ。『今ならだいじょうぶだろう』オレは、迷いながらもダイヤルを押した。『たかだか何秒かのことだ。メッセージを聞く分にはかまわないだろう』そんな安易な考えから出た行動だった。携帯を左耳に押しあてると、しっかりと前を見据えた。まだ信号は変わらない。携帯からは、部下であるヨウヘイの声が響いてきた。家を出る前に頼んでおいた調べ物の返事だった。さすがにヨウヘイだ。やることが早い。的確な数字と記録がすらすらと耳の中へと流れ込んでくる。『なるほど、そうだったのか…』オレは一瞬にして仕事モードになっていた。その時、突然、信号が変わった。こんなときの信号は短く感じるものだ。『留守電はもうすぐ終わる。すぐだ』オレは、メッセージを聞きながらゆっくりと車を発進させた。


 見晴らしはいい。携帯電話を耳にあてているとはいえ、いつもにも増して注意を払っている。オレは、ヨウヘイの声に耳を傾けながら、静かに車を進めていた。その時だった。オレの体のある部分が、何か得体の知れない気配(けはい)のようなものを感じ取った。確かに、その“気配”はオレに向かっている。何ものかがオレを見つめているのだ。それも、近いところから…。『何だ?この感じはいったい何なんだ!』人なのか…獣なのか…はたまた、地縛霊か!いや、そんなことはない。『真っ昼間だ。出る訳がない!』

 たかだか1秒か2秒だっただろう。それでも、オレは一瞬の間にありとあらゆる可能性を探った。人間は危機を感じると不思議な力を発揮するというが、オレは、この時まさにその一端を知ることができた。オレは、全神経を集中させて気配の出所を探した。両目を上へ下へと、右へ左へとめまぐるしく動かした。その時だった。オレの左目の端が、射るように見つめる目のようなものを捉えた。、『うわぁ!出た!』オレは危うくハンドルを切り損ねるところだった。反対車線に飛び出しそうになる紅丸を辛(かろ)うじて留めたといってもいい。ふたつの目が、ものすごい形相でオレを見つめている。紛れもなく人間の目だ。両の目はカッと見開かれ、どんなことでも見逃してたまるかという必死さがあふれ出ている。悪夢を振り払おうとアクセルを強く踏んでみたが、その目も同じ速度で付いてくる。人間の足で、50キロの車にピッタリと付いてくるなんて到底不可能だ。『どうなっているんだ!』

 助手席の窓に張り付いたようにして迫ってくる顔をよく見ると、鼻があり、口がある。頭部は白いヘルメットで覆われている。何かしらの制服を着ているようだ。バイクだ!バイクに乗って付いてきている。白いバイクだ!誰だ?いったい誰なんだ…?オレはすべてが分かった瞬間、車のスピードを落とし、助手席側の窓を開けた。もちろん、携帯電話も耳からはずした。窓が下がり始めると同時に、恐ろしい目の持ち主は大声で言った。

「携帯電話、保持してましたね?」
「は?」
「携帯電話持ってましたね?」
「……」

その通りだ。携帯電話は、オレの耳元にあった。間違いない。オレは、この時点ですべてを悟り、観念した。

「今、携帯電話持ってましたね?」
オレは、通行禁止違反で警官に声をかけられたときと同じように、素直に応じた。

「はい…」
「よ〜し、確認おっけい!保持、確認しましたぁ〜」
目の持ち主は、満足そうにうなずくと白バイを紅丸の前に進めた。オレは白バイの後に付き、スピードをゆるめ、車を路肩に停めた。

目の…いや、その警官は窓から身を乗り入れるようにして言った。

「携帯電話保持は違反です」
観念したとはいえ、往生際の悪いオレは一応反論してみる。

「持ってましたけど、話してないですよ」
「ダメなんです!」
「持っているだけでもだめなんですか?」
「持っただけでもダメです!」

 オレは、完全にあきらめ、黙って免許証を手渡した。『なんてことだ…』せっかくの一日に傷が付いてしまった。オレはため息をつきながら、手続きを少しでも早く終えたいと思った。

 通行禁止場所通行の違反時と同じ青色切符だ。今回の反則事項欄には、「携帯電話使用等(保持)」と書かれている。反則金は6000円だ。『く、悔しい…』『6000円あれば、300円の牛丼が20杯食えるじゃねえか…』『迷ってたDVD買っとけば良かったなあ…』等とくだらないことばかり考えてしまう。確かに車内での携帯電話使用は危険だ。その理屈はよく分かる。だが、検挙されるとやはり悔しい。


 オレは、信号待ちの最中ならば携帯電話を手にしても大丈夫だと思っていた。だが、それは勝手な解釈でしかなかった。信号待ちや渋滞中は車が停止状態でも厳密に言えば“運転中”に当たるというのだ。携帯電話が普及し始めた90年代、車内での携帯電話使用が交通事故の要因のひとつとなった。1999年の道路交通法改正により、自動車、あるいは原動機付自転車の運転中に「携帯電話を手に持って通話のために使用すること」そして、「携帯電話等の画面に表示された画像を注視すること」について禁止規定が設けられた。この規定に違反したことに起因して道路における交通の危険を生じさせた場合に限って、3ヶ月以下の懲役、または5万円以下の罰金が科せられることになった。

 この段階ではまだ、“この規定に違反したことに起因して”という条項があり、事故などに結びつかない場合は、罰則の対象にはならなかった。そのうち、それでは甘いということになり、2004年には更に厳しい改定がなされた。携帯電話の保持や使用は、事故が起こる起こらないに関わらず違反として処理されることになったのだ。使用が確認された段階で減点1、危険な状況に陥った場合や事故を起こした場合は減点2となり、反則金は普通車ならそれぞれ6000円と9000円が科せられることになった。これを納めないと5万円以下の罰金となる。更に、危険を生じさせた場合は3ヶ月以下の懲役、または5万円以下の罰金が科せられる。この部分は変わっていない。規制されるのは携帯電話だけではない。カーナビや、カーテレビ、PDA、携帯型ゲーム等のディスプレイ表示部を持つものの使用も同様に扱われる。ならば、どうしたらいいのか。交通安全を呼びかけるホームページには、以下のようにあった。

◆業務上やむを得ず、運転中に電話する必要がある人はイヤホンマイクやヘッドセット等ハンズフリー装置を利用するとよい。この場合、規制の対象とはならないが、電話により注意散漫になるのでできるだけ避けよう。

“できるだけ避けよう”なんて、抽象的で分かりづらいが、このような灰色の部分もなくてはならないのだろう。

◆運転中に電話がかかってきた場合は、近くに車を停めてエンジンを切ってから電話しよう。

分かってはいるものの、なかなか行動には移せない。イヤホンマイクを付けてもいいのなら、そうするのが人情というものだ。

◆カーナビゲーションの使用は、従来通り、危険を生じさせない限り違反にはならない。

これも分かりづらい。危険を生じさせたか、そうでないかの判断は誰がするのか…。曖昧さが気になるがこれもしょうがないのだと納得するしかない。

◆タクシー無線のように、車に取り付けられたスピーカーから音が出る装置(機器を手に持つことなく受信できるもの)を用いて通話を行うことは規制の対象外となる。

これは、当然だろう。タクシーにおいて無線は必要不可欠だ。

◆傷病者の救護や公共の安全の維持のために緊急やむを得ず、携帯電話で通話を行うことは規制の対象外となる。

これも当然だ。人命第一なのは小学生でも分かる。


 オレも、数多くの悔しい違反を重ねてきたが、携帯電話保持の違反については甘んじて受けねばならぬと思っている。一瞬の隙が、大きな危険を生み、大事故に繋がることがあるからだ。今は、オレもハンズフリーだ。でかい声で堂々と話している。パトカーと出会っても臆することはない。さて、携帯電話保持違反での減点は1、問題は残りの3点だ。この3点については、オレにも言いたいことがある。思い出すだけでも唇を噛みたくなるあの出来事は、仕事で新潟に向かった日に起こった。 (つづく)


(C)2010 SHINICHI ICHIKAWA
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