<百五十六の葉>
フトシ回顧録
違反者講習(十二)

 交通安全の襷と腕章を着けたオレたちはどこから見てもボランティア活動家だった。罰を受けているという引け目や後ろめたさは捨て去って、この活動に真っすぐに向き合えばよかった。公衆の中での交通安全活動体験を選んだ誰もが、この場に立つまでは交通違反の罰則、あるいはペナルティとして“やらされる”という受け身の立場だったに違いない。だが、今や、皆の心には少しでも交通安全の役に立ちたいとの思いが満ち満ちていた。町行く人たちの目が気になった人もいただろう。しかしながら、オレたちの活動を交通違反のペナルティとして理解していた人がどれだけいただろうか。もし、経験者がいたのなら、その人たちは別として、ほとんどの人たちが分かっていなかったはずだ。実際のところ、オレ自身もこの場に来るまではこんな活動があるなんて知らなかったのだから。


「交通安全お願いします!」
最初の婦人は軽く会釈を返してくれた上、何気なくティッシュを受け取ってくれた。『よし!』なぜか喜びが込みあげてきた。人は、自分の気持ちに応えてもらえると、それが、小さな仕草や言葉であっても前向きになれる。オレは、心を込めて次々とポケットティッシュを差し出した。ほとんどの人は受け取ってくれるのだが、中にはティッシュを配っているというだけで、遠巻きに迂回していく人もいる。確かに、今の時代、ティッシュ配りにはあまりいいイメージはない。かれこれ30年くらい前になるだろうか。ポケットティッシュが無料で配られ始めた頃は歓迎された。(と、オレは思うのだがいかがなものか…)ティッシュは持っているだけで何かと役に立つし、荷物にもならない。宣伝効果がどれほどのものだったのか分からないが、ポケットティッシュを使った宣伝が素晴らしいアイデアだったことは疑いもない。

 当初はどんな広告が載っていたのか、今ではすっかり忘れてしまったが、持っていて恥ずかしいものではなかったように思う。だが、ポケットティッシュの広告は次第に俗っぽさを帯びて行く。ピンク系、サラ金系、パチンコ屋の宣伝、漫画喫茶の割引券等の登場だ。これでは、進んで持とうとは思わない。持っていて恥ずかしくないのは居酒屋の割引券か不動産の広告ぐらいだろう。いや、それでも女性には厳しいか。余談だが、ティッシュに因(ちな)んだ話をひとつ。○○駅前に店構えも味も文句のつけようのないラーメン屋があった。この店では、ある時から紙ナプキンの代わりに某サラ金のポケットティッシュが山積みされるようになった。経営者がその会社の関係者だったのか、資源の有効利用だったのかは分からないが、なんだか興が冷めてしまった。適材適所はもとより、適品適所も考えなければならない。半年後にその店の前を通る機会があった。残念なことに、そのラーメン屋はなくなっていた。ポケットティッシュのせいだったとは到底思えないが、複雑な思いがした。


 事実、多くの人が、オレの差し出すティッシュを見て、受け取るか否かを判断していた。特に女性の場合は、95%以上の人がチラッと視線を注ぎ、“何が書かれているのか”を確認してから受け取った。さもあらん。子供の鼻をかむとき取り出したポケットティッシュにピンクの広告やパチンコ屋の宣伝が印刷されていたとしたらばつが悪い。オレの手の中のティッシュに、ピーポ君のイラストと警察庁の文字を認めると皆喜んで手を出した。中には、もうひとつと強請(ねだ)る人もいた。引き返してきてあとみっつほどくれと言う強引なおばさんもいた。それにしても、若い女性、いや、この場合は女でいい。若い女の中にはひどいのがいる。フンと手を出して、歩くスピードも緩めずに過ぎ去る女。『もらってやるわ』と言わんばかりに上から目線で立ち去る女。まったくもって閉口する。年配の人たちの多くが『ご苦労さまです』『ありがとう』と声をかけてくれたのとは大違いだ。


 もうひとつ気付いたことがある。ティッシュを受け取る側は、こちらの心の在り方を無意識のうちに感じ取っているということだ。自信がなかったり、後ろめたさがちょっとでも残っていたりすると、受け取る側もなんとなく躊躇しているように見える。オレは、普段、駅前でティッシュやチラシを配っている人たちをひとつの観点から見ている。彼、彼女らに一生懸命さを感じれば、たとえいらなくても受け取るし、どんなに愛想よくしていても尊大さを感じれば、興味がありそうなものでも受け取らない。

 ピーポくんの効果は絶大だった。ポケットティッシュはあっという間になくなってしまった。

「教官先生!終わりました!」
オレは教官の元へ走って行くとあやうく敬礼しそうになったが、どうにか踏みとどまり、ティッシュが入っていた袋を差し出した。

「き、君!もう終わったのか?」
さすがの教官も本気でびっくりしていた。『ふふふ…オレの実行力に舌を巻いていやがる。やる時にはやる男だってことを知らねえな』確かに教官はそんなことは知らない。だが、オレの鼻息は更に荒くなった。

「もっと、ください!もっと!!」

「そ、そうだね…ちょ、ちょっと待っててください…」
教官は、一瞬怯(ひる)んだ様子を見せたが、すぐにポケットティッシュを片手一杯分だけ手渡してくれた。『これだけか?』やる気満々のオレは不服だったが、なるほどティッシュの数は限られていた。『オレだけで配り終わってしまっては実習の意味がないな』オレは重々理解の上、数少ないピーポくんを大切に配った。


 さて、次は、いよいよ手旗係だ。オレは所定の位置についた。教官からは、横断歩道の信号が青になったら黄色の旗を掲げるようにと指示されていた。信号が青に変わると、オレは胸を張り背筋を伸ばした。青空に届けと旗を誰よりも高く掲げた。『ドライバーの皆さん、ここに歩行者がおります。気をつけてください!』心の中で訴え続けた。オレの様子を見てのことだろう。周りからは、クスクスと笑い声も聞こえてきたが、そんなことを気にしている場合ではない。交通事故は待ってはくれないのだ。青信号が点滅を始めると旗を降ろす。信号が赤になる前に渡り終えてもらうためだ。しかし、青信号が点滅し、赤になっても渡る人は後を絶たない。前の人に続けと赤信号など無視だ。『オレも昨日までは同じだった…』向こう見ずな歩行者に対する苛立ちと反省の気持ちが同時に湧き上がった。オレは、最後の最後まで気を抜かずに手旗係を務めた。 (つづく)


(C)2010 SHINICHI ICHIKAWA
-------------------
PAGE TOP
目次
ESSAY TOP
BBS
HOME