<百五十七の葉>
日々是好日(三)

 今回は、「十一の葉」「二十九の葉」に続いて、久しぶりに「日々是好日」と題してみた。久しぶりと言えばあまりにも久しぶりだ。この2編の発表は、2006年の2月と9月だから、おおよそ4年振りということになる。『何を書くか決まらない。さて、どうしたものか…』と悩んだときに選んだのがこのタイトルだった。日々是好日…。ぼくは、言葉の響きからして「今日もいい日だ」とか「毎日が長閑(のどか)だ」とか、穏やかな毎日を表すのん気な言葉だと思っていた。エッセイの内容が決まらないまま机に向かうのは今でも不安だが、開き直って毎日の生活の中から楽しいことや明るい出来事を書いてみたいという思いからこのタイトルに至ったのだ。しかし、この言葉、そんなに単純なものではなかった。

 まずは、これをどう読むか。ぼくは、当初「ひびこれこうじつ」だと思っていた。事実、多くの人がこう読むのではないだろうか。けれども、正しくは「にちにちこれこうにち」あるいは「にちにちこれこうじつ」と読む。元々は中国の唐〜五代十国時代の名僧雲門禅師(869〜949年)の言葉で、禅宗と共に日本に伝わったと言われている。雲門禅師は、弟子たちに「過去は問わない。今から15日後の自分の心を一言で言ってみなさい」と問うた。なんと不思議な質問だろう。15日後の心境なんて分かる訳がない。その日に何があるのかなんて、誰にも分からないし予想もつかないからだ。しかしながら、禅師の言葉の意味がおぼろげにでも分かると、15日後というのは喩(たと)えであって、30日後だろうが100日後だろうが答えは同じだということが理解できる。ただ、理解はできても、実際に、いついかなる時でも同じような心境で生きていけるかと問われたら、無理だとしか答えようがない。そんな境地に辿りつけるのは、何万人、あるいは、何十万人にひとりなのではないだろうか。

 雲門禅師は、弟子たちが答えられずにいると自ら「日々是好日」と言い放った。基本的には「毎日がよい日である」という意味だ。だが、そこには言葉面だけでは捉えきれない深い意味が込められている。ぼくなりの言葉で簡単に説明してみよう。普通、ぼくたちは晴天だといい天気と言うが、嵐の日をいい天気とは言わない。楽しいことがあれば『いい日だったなあ』と喜び、辛いことがあれば『嫌な日だった』としょげる。雲門禅師は、『“いい日”とか“悪い日”とかの判断は“自分を中心とした心の動き”に過ぎない。晴れの日は晴れを楽しみ、雨の日は雨を楽しみ、風の日は風を楽しめるようにならねばならぬ』と言う。更には、『楽しむべきところは楽しみ、楽しみがないところでも、また、ないところを楽しめ』と…。

 つまり、会社をクビになっても、財布を失くしても、近しい人が亡くなっても、それはそれで受け止めて、そんな状況でさえも前向きに受け取れる境地が日々是好日だと言っているのだ。あらゆることを受け入れて、ただひたすらに毎日を生きればすべてが好日であるというのだが、そんなこと、ぼくたち常人には到底無理だ。それが、どんなに理想的な考え方であったとしても、落ち込んだり、嘆いたりするのが人間ではないのか…。これ以上の推考は個人的なものだと思うから、本気で勉強したい人は哲学書や宗教書を開いていただくとして、以下は、ぼくが“日々是好日”の意味を知りたくて参考にした文章や言葉だ。皆さんは、どのように感じるだろうか。参考にしていただければと思う。

■日々是好日とは…
『その日その日が最上であり、かけがえのない一日であって、日々の苦しみ、悲しみ、喜び、楽しみなど良い悪いに対する執着がなくなり、今日を率直に受け止め、自然の中で生きているということを感じ、一日を意のままに使いこなす、過ごせる、というところに真実の生き方がある』

■日々是好日とは…
『どんな日でも毎日は新鮮で最高にいい日だということを表しています』

■日々是好日とは…
『自己の本分に生きよ、ということを示している。一日をただありのままに生きる楚々とした境地。毎日を“楽しく”過ごすというより、どんな日であっても毎日は常に新しくかけがえのないものだと感謝しながら生きること』

■日々是好日とは…
『相対的な価値観を超越し、宇宙と一体となって悠々と生きる事が人間としての真実の生き方であるという境地に達すれば、日々すべからく好い日である』


 果たして、好日になるのか7月11日。参議院議員選挙がある。民主党が勝つのか、自民党が巻き返すのか、その他の勢力が台頭するのか。興味深い選挙であることは間違いない。さて、皆さんは政治家に対して、どのようなイメージを持っているだろうか。蓮舫さんらが事業仕分け人としてクローズアップされたが、まずは、自分たちの給料を仕分けするという考えはなかったのだろうか。国会議員の数は、現在、衆議院議員480名、参議院議員242人、計722人いる。一体、どれほどの金額を支給されているのか。聞いてびっくりだ。国会議員の歳費(給料)は月額約130万円、期末手当も含めると年間約2,200万円になる。その他に文書通信交通滞在費として年間1,200万円、立法事務費(立法に関する調査研究活動のための経費)として780万円の経費が支給される。ここまでで、年収約4,200万だ。それにプラスして、国から支給される公設秘書3人の給与(2,000万円以上)やその他の手当等も含めると7,400万円ぐらいになるそうだ。もらい過ぎだと思うのはぼくだけではないだろう。722人×74,000,000円で、534億円(53,428,000,000円)にもなる。こんなにもらっていて“国民目線”はない。自分たちのお金だけはちゃっかりキープして、「さあ、仕分けを始めましょう!」では誰も納得できない。


 2009年3月10日にアップした116編目のエッセイのタイトルは『おこづかい』だった。ぼくは「おこづかい」とつぶやくだけでも心の中が暖かくなる、と書いた。だが、今はどうだ?おこづかいと聞くと、前首相の顔が思い浮かんでしまう。それにしても情けない。ぼくたちは、自分の財布にいくらあるのかも分からないような人に、国を、国の金庫を預けてしまったのだ。彼は母親から7年間、月々1,500万円 (15,000,000円)の子供手当てをもらい、それだけでも計12億円 (1,200,000,000円) もの所得を得ていた。ご本人は知らなかったと言っているので真相は分からないが、このお金の存在が発覚するまでは1円の税金も払っていなかった。こんな首相がいたのかと思えば、大統領就任後に自宅を除く全財産25億円を青少年の奨学事業に寄付した人もいる。2年前に韓国大統領に就任した李明博(イ・ミョンバク)大統領だ。彼は、マッチや海苔巻きを売り歩き苦学して名門大学に進学し、その後、財閥企業の会長にまで登り詰めた苦労人だ。一国の代表となった彼は、かつて、大学登録料を立て替えてくれた人や学費稼ぎのための仕事を与えてくれた人たちに感謝しながら「貧しくても一生懸命生きている人々のために財産を使いたい」と語った。

 他人の財布の話なんて大きなお世話であることも、お金をどう使おうと本人の勝手だということも分かっている。それにしても…だ。ほぼ同時期に国のトップになったふたりの対比は、“おもしろさ”を通り越して“滑稽さ”までも醸し出していた。先月、退陣した前首相は、これからも好きな時に、好きなところで、好きなものを食べて、悠々自適の人生を送っていくのだろう。

 雲門禅師はそれでも、日々是好日だと笑うだろう。人生の一喜一憂は晴れや雨と同じだ。他人の話はともかくとして、“新しい一日は常に尊い”と言う禅師の言葉を肝に銘じたい。例え、簡単に実行には移せないと分かってはいても…。

 「日々是好日」とは、“今こそすべてであり、今ほど大切なものはない”というメッセージだ。今回は、参議院議員選挙を記念して特別に候補者風に決めてみようと思う。

 「さあ、皆さん!今、この一瞬を精一杯生きようではありませんか!」


(C)2010 SHINICHI ICHIKAWA
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