<百六十の葉>
時間の謎

 アインシュタインは、この世で速度が一定なのは“光”だけだと語った。一般的には一定だと思われている“時間”も厳密に言うと一定ではない、ということらしい。「らしい…」としか言えないのは誠に申し訳ないが、このエッセイで、物理学や相対性理論を取り上げる訳ではないから、大目にみてほしい。この手の本は、読んだことも読もうとしたこともないし、読んでもさっぱり分からないだろうから、一生、縁遠いままだと思っていた。だが、改めて考えてみると“時間が一定ではない”というのは不可思議で興味をそそられる理論だ。一体どういうことなのか、知りたくない訳がない。知れば、また違った世界が見えてくるに違いない。機会があったら勉強してみたいし、理解している人がいたら、ぜひ教えてほしい。このエッセイでは、“時間が一定ではない”ということを学問的にではなく、日常生活の中での“感覚”から考えてみようと思う。


 ぼくたち、現代人の生活は時計なしでは成り立たない。学校も仕事も、時間を軸に組み立てられ、世界中の人が、基本的には同じ時間軸の上で生活している。物理学的な理論をまったく知らない身の、極めて単純な疑問で申し訳ないが、もし、時間が一定でないならば、陸上の100メートルのようにシビアな競技等で問題が起こることになる。そんな話は聞いたことがないから、とりあえず、学問上の答えは、“違う次元での話”なのだと棚に上げておいて話を進めたい。ぼくたちは、普段、“時間は一定だ”と疑いもせずに生活している。この事を前提として“感覚”の話に戻ろう。


 『50歳の人が感じる“1年という時間”の長さは、1歳児における1年の50分の1でしかない』という話を聞いたことがある。1歳の子が過ごす1年と、50歳の人が過ごす50年が、感覚の上では同じだというのだ。う〜ん、これは、むずかしい。別の言い方をすると、『50歳の人は1歳児の50倍のスピードで時間を感じている』ということだ。1歳児の1年を1とすると…。大切なところなのでもう一度。『1歳児の1年を1とすると、2歳児はその2倍、3歳児はその3倍、というように、人は1歳児と比べて、年齢の数の“倍数分”、時間を早く感じる』というのが今回の大テーマだ。

 確かに思い当たる。子供の頃に感じた時間と今、感じる時間とでは明らかに速さが違う。1歳や2歳の頃のことを覚えている人はいないと思うが、物心ついてからのことは何となく記憶しているだろう。時間の概念が分かるようになったのは保育園の年長ぐらいの頃だったか。小学生の頃、1年は長かった。1学期が長かった。1ヶ月が長かった。月曜日になると『長い1週間が始まる』と思ったものだ。1日も長かった。1時間が長かった。午前中の4時限の授業がどれほど長く感じられたことか。たった5分の休み時間でさえ運動場に出て遊んだが、それでも満足感はあった。昼休みや放課後はなおさらだ。それに比べて、今は…。月曜日だと思っているうちに、すぐにまた月曜日がやってくる。同年代の皆さん、どうだろう。決して大げさな話ではないと思うのは、ぼくだけではないはずだ。

 ぼくたちの親の世代では…。限(きり)のいいところで80歳と仮定しよう。80歳の先輩などは、ぼくたちの世代(こちらも限よく50歳とする。)に比べると(80÷50で)ぼくたちの1.6倍の速さで時間を渡っているということになる。6割増しのスピードで時間を感じているということだ。ぼくと10歳の姪が一緒にいるとき、流れている時間は同じだ。だが、この考え方でいくと、感じる体内の、いや脳内か、の特別な時計によって、ぼくは、彼女の5倍のスピードで時間の流れを感じているということなのだ。5倍か…。今のぼくの5年が、彼女の1年…。もっと長く感じるか、とも思ったが、確かにそれくらいだろう。納得できる。


 このようなことを考えるようになったきっかけは、幼なじみとの関係だ。10年会っていなくても、20年会っていなくても、一瞬にして自分自身をさらすことができるようになってしまうこの不思議な間柄を、どうしてだろうかと考えたのが始まりだ。試しに、小学校6年間と中学校3年間を共に過ごした友との関係を考えてみよう。ここで少々計算をする。7歳から15歳までの1年が、ぼくたちの世代(便宜上50歳とする)の1年の何倍の長さに感じるかを書き出してみよう。1年生は6歳だったという方も多いと思うが、これも便宜上7歳として進めさせていただきたい。(小数点二桁以下四捨五入)

 1年生(7歳)…7.1倍
 2年生(8歳)…6.3倍
 3年生(9歳)…5.6倍
 4年生(10歳)…5倍
 5年生(11歳)…4.5倍
 6年生(12歳)…4.2倍
 中1(13歳)…3.8倍
 中2(14歳)…3.6倍
 中3(15歳)…3.3倍

 平均は、11歳の4.5倍だ。つまり、現在のぼくたちの世代が感じる9年の年月は、7歳から15歳までの9年に換算すると、約45年ということになる。50歳で止まったまま9年ということはあり得ないから、こちらも46歳から54歳までの9年間と考えて、平均の50歳で計算した。小学校、中学校で9年間を共に過ごした友とは、50歳現在の感覚でいうならば、約45年の付き合いがあったということだ。それだけ濃厚な時間を一緒に過ごしたということになる。45年も付き合った間柄なら、10年や20年会っていなくても、それがどうしたということになっても不思議ではない。

 親や兄弟ならばなおさらだ。おもしろそうだから、試しに1歳から6歳までも計算してみよう。

 1歳…50倍
 2歳…25倍
 3歳…16.7倍
 4歳…12.5倍
 5歳…10倍
 6歳…8.3倍

 はははは…。荒っぽい計算だが、これだけで120年を越してしまう。15歳までの45年を足すと、50歳の人が振り返った場合、親兄弟と過ごした15年は、約165年もの長い年月となる。親元を離れて何十年経とうが、会えば、それこそ、何でもさらけ出せるという理由がここにある。…とぼくは信じる。家族とはそういうものではないだろうか。

 ここまで書いたことは、まったくの推測だ。事実なのか、でたらめ話なのか、読む人に決めていただければと思う。ぼく自身は、このように考えるのも悪くはないと思うし、ここ10年ほどの謎が解けた気がして、何だかすっきりした。


 2006年12月の「四十の葉」でも、『年齢を重ねると時間が経つのが早く感じる』ということをテーマに書いた。「百六十の葉」で更に、深く考えることができたのは、まったくの偶然だが、もし、当時より4倍上手く書けるようになっているのだとしたら、これほどうれしいことははい。 (了)


(C)2010 SHINICHI ICHIKAWA
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