<百八十の葉>
東日本大震災(一)

 東日本大震災が起きてから3週間が経とうとしている。経験したことのない出来事に心の置き場所を整えられないまま数日が過ぎたが、ここにきて、街もぼく自身も少しだけ落ち着きを取り戻してきたように思う。ここで“思う”という言葉を使うのはいかにも頼りなさ気で申し訳ないが、実際のところ、今でも自分自身を客観的に見られているのかどうか疑わしい。その証拠に、3月11日14時46分に生じた心の中のふわふわとした感じは拭いきれないままだ。

 今回の震災に対して“想定外”とか“未曾有”とかいう形容詞をよく耳にする。実際に、今回の揺れと津波は想像や予想をはるかに超えるものだった。過去に何度も被災した地域の人たちでさえ防げなかったのだ。人間は、経験を行動に反映していく動物だ。だから、過去に例がなかったことに対してはもろい。対処のしようがないのだ。今後は、その弱点を克服すべく地球に起こりうるあらゆることを想定に入れて考え尽くさねばならない。

 苦難に面したときの日本人の団結力、行動力は半端ではない。その気になれば、あれほどの瓦礫の山を撤去するのも破壊しつくされた道を整備するにもさほど時間はかからないだろう。その実行力、綿密さは比べるべくもない。まず、世界一だろう。だが、その前に大きな問題が立ちはだかる。

“あの地に家は建つのだろうか”
“街はよみがえるのだろうか”

 住民の皆さんはもちろんのこと、県や国にもこのような命題が、突きつけられる。もちろん、物理的に家を建てることはできる。そうではなくて、いつか再び襲ってくるであろう津波とどう向き合うかということだ。防御策として、例えば、高さ50メートルの防波堤を築くとしたらどうだろう。いや、待て。本当にそれで事足りるのか。一瞬にしていくつもの町を飲み込んだ津波の威力は計り知れない。高さは50メートルで足りるとしても厚さは100メートル、いや200メートルは必要かもしれない。その壁は、少なくとも数100キロは続くだろう。そんなことが景観上許されるのだろうか。住民たちがそれを望むだろうか。陸と海を隔てる建造物が延々と続く景色とは、一体どのようなものなのか。巨大な壁というと、中国の万里の長城が連想されるが、決定的に違うのは、万里の長城は他民族の侵入を阻むために作られたものであるのに対し、防波堤は人間ではなくいつ襲ってくるのか分からない自然を相手にしなければならないという点だ。港へ行くにも海水浴に行くにも高さ50メートル厚さ100メートルの巨大な壁をくり貫いたトンネルを進まなければならない。そのトンネルには、厚さ数メートルの鋼鉄の扉が備え付けられるだろう。

 もうひとつ考えなければならない。もし、その壁によって津波が日本を襲うのを妨げたとしても、生き物と化して突進してくる波の勢いは止められない。はね返された波は威力を増し太平洋の島々を飲み込む。そして、その先にある南北アメリカ大陸に牙を剥(む)くだろう。日本だけの問題ではない。世界規模の議論となるのは必定だ。千年に1度の津波を防ぐためにそのような壁を作るのか、それとも、あくまでも景観を守るのか。生まれ育った場所で暮らすことを望むのか、安全を優先するのか。むずかしい問題だ。住民の皆さんはどう考えるのだろう。

 原発の問題もある。まだまだ、安心できる状況ではない。2次災害、3次災害が起きてもおかしくはないという。高濃度の放射能に汚染されてしまったら、そこでは、もう暮らせない。再び安心して暮らせるようになるまでには何十年、何百年かかるのか想像もつかない。そして、残念なことに、それが現実になってしまう可能性が高いのだ。自分の町を捨てられるかと聞かれたら、誰もが口ごもる。思い出の詰まった町だ。できることならば離れたくはない。それでも、苦渋の選択をしなければならない時が来ている。江戸時代の前半までは、国替えは当たり前のように行われた。領主に付いて行く領民も多かったと聞く。もしかしたら、ぼく自身も含めて土地への執着は現代人の方が強いのかもしれない。

 ぼくたち現代の日本人は、平和の国の住人だった。幾万もの命が瞬時に奪われるような悲劇は、小説や映画の中だけだと思い込んでいた。他国の戦争や革命もどこ吹く風、他人事だと思って生活していたとは言えないか。非情とも言うべき現実を突きつけられた今、ただ手をこまねいて見ている訳にはいかない。数十年は復興へ向けての茨の道が続くだろう。今こそ、日本人の底力を見せるときだ。ぼくも国民のひとりとして力強い一歩を踏み出したい。

 


(C)2011 SHINICHI ICHIKAWA
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