<百八十二の葉>
50歳宣言!

【50歳】
 本日をもって、ぼくは50歳となった。“50歳”“五十歳”“ごじゅっさ〜い”“Gojyussai”“フィフティーイヤーズオールド”。どう書いたところで50歳に変わりはない。50年か…。う〜ん、困った。あまりに実感がない。脳がコンプレッサーを使って勝手に記憶を圧縮しているのでは、と疑いたくなる。あれよあれよと言う間に50年が過ぎてしまった。だが、考えてみると確かに記憶は圧縮されている。人は“今”を生きるために過去を上手に整理するではないか。脳は、忘れてしまいたいことを秘密裏に処理し軌道修正してくれる。そうやって、主(あるじ)を前へ前へと向かわせるのだ。それでも、40歳になったときよりもはるかに気合が入る。『よ〜し!』という気にさせてくれるのだからおもしろい。10代20代のころは、50代の自分なんて想像もできなかった。できなかったというより、反射的に拒否していたと言った方がいいだろう。50歳とは、はるか彼方のことだった。だが、いざ50歳になってみると悪くはない。限(きり)もいい。自分が歩んできた道をちょっとだけ振り返って見るにはちょうどいい頃なのかもしれない。

【感謝】
 お父さん、お母さん、ぼくも50歳になりました。本当にありがとう。以前、誕生日は母に感謝をする日だと書いた。その気持ちに変わりはない。もちろん、父にも感謝はしているが意味合いがちょっと違う。母はおおよそ1年もの間ぼくを胎内で育ててくれた。本当の意味で、ぼくは母の一部だった。密着度が違うのだ。母の胎内で過ごした1年のことなど覚えているはずもないのだが、快適で夢のようだったとなんとなくでも感じるのは、その心地よさが無意識の中に刻まれているからに違いない。正真正銘、安らぎの中にいた。

【立場】
 “おとなと子ども”の関係と“親と子”の関係は似ているようでまったく違う。父と母は20代で親となった。世の多くの人たちと同じように20代で“父”“母”という“親”の立場になった。親とは…何と言ったらいいのか、ひとことで言うと“すごい”存在だ。ほとんどの人たちはこのすごい存在となるが、ぼくには子どもがいないから親という立場になったことがない。“子”の気持ち、“孫”の気持ち、“兄”の気持ち、“伯父”の気持ちなら分かる。だが、“親”の気持ちは本当には分からない。弟や妹には子供がいるから、彼らは“父”であり“母”だ。親となった彼らは子供の眼を通して両親を見るから父母は“子の祖父母”となる。この違いは大きい。50歳になったぼくの立場は、今でも“子ども”のままだ。目には見えないけれど大きなものに守られて思う存分の毎日を送っている。

【反省】
 思い返すということは、思い出したくないことまでもが頭をもたげてくるということでもある。浮かぶのは苦い思い出ばかりだ。振り返るということは、こういうことなのだろう。つまずきや失敗こそが、ここまで来るための原動力だったということか。ぼくは、若いころは傲慢なところがあった。不遜だった。こと音楽に関しては妥協できずに、多くの人を傷つけてしまった。不誠実な態度で女性を傷つけたこともある。今となっては恥じ入るばかりだ。これを機に、嫌な思いをさせてしまったすべての人たちに“あのときはごめんなさい”と謝りたい。

【敦盛】
 50年というと100年の半分だ。半世紀という言い方もできる。確かにそうだ。四捨五入して100だという人もいるが、それはないだろう。少々強引すぎる。“50年”で思い浮かぶのは、信長が桶狭間の戦いの出陣前に舞ったという『敦盛』だ。敦盛は、能や幸若舞の演目のひとつで、物語は源氏方の武将熊谷直実と平家の御曹司平敦盛との一騎打ちから始まっている。源平合戦の一ノ谷の合戦において、熊谷直実は敵将である敦盛の首を取った。敦盛は16歳だった。熊谷直実は、同じように若くして戦死した息子と敦盛を重ね合わせ、人の世の無常を感じ結果として出家してしまう。以下の一説が有名だ。『人間五十年下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり…』現代人のぼくたちには『人生は50年。一生なんて夢幻のようだ』と受け取れるが、本来の意味は違う。下天とは天界の最下位である“四天王天”のことで、この天での1日が人間界の50年にあたるそうだ。つまり、人の寿命が50年だというのではなく、『人間界の50年など下天の時間に比べれば夢や幻のように一瞬のものだ』と言っているのだ。この後に『一度生を享け、滅せぬもののあるべきか』と続く。敦盛の一節は“人生は短かった”という辞世的な意味合いで受け取られがちだが、“死を恐れずに一瞬一瞬を思い切り生きようではないか”という超前向きな言葉なのだ。信長が好きだったというのもうなずける。

【ルーツ】
 父の両親と母の両親、ぼくにとってのおじいちゃんとおばんちゃんは、ふたりずつ4人いる。この祖父母にも父母がいるから、3代前の曾祖父母は4人ずつ8人、4代前の高祖父母となるとひいひいおじいさんとひいひいおばあさんが8人ずつ、計16人もいるということになる。ぼくには、この16人の血が16分の1ずつ流れているのだ。(※この辺りの話は、二十七の葉 「ひいひいひい」 をご参考ください。)一世代をそれぞれ25年と考えると4代前はぼくより100歳年上ということになる。ぼくが1961年生まれだから、便宜上25ずつ引いていって、父母の代が1936年生まれ、祖父母の代が1911年生まれとする。曾祖父母たちが1886年生まれ、高祖父母の代が1861年生まれだ。1868年が明治元年だから、高祖父母は江戸時代に生まれたということになる。明治から慶応、元治と遡(さかのぼ)り文久の時代、激動の幕末だ。1861年生まれの高祖父母たちは、1881年に20歳を迎えたということになる。どこに住んでいたのだろう。何をしていたのだろう。姿かたちは、性格は…。考え出すと限がない。かろうじて、父と母の直系のひいひいおじいさんとひいひいおばあさんのことだけは、おぼろぎにだが聞き知ってはいるが、他の高祖父母たちについては何も知らない。遡ろうにも手がかりを探すことさえ容易ではない。知りえるものなら知りたい。坂本竜馬や西郷隆盛の顔を見た人がいるかもしれないのだ。TBSのテレビドラマ“Jin〜仁”のように、タイムスリップができたならどんなにいいだろう。1881年に戻り、苦労の果てに16人を探し出す。そして、みんなを集めて宴会をするのだ。そこで、「皆さん、私はあなた方の玄孫(やしゃご)です!」と宣言する。みんなはどんな顔をするだろう。想像するだけでも楽しい。もしかして、みんなもお互いに初対面で、そこで初めて恋が芽生えるなんてことになったとしたら…。それこそ小説だ。経緯はどうであれ8組のカップルが曾祖父母たち8人をこの世に送り出した。そして、曾祖父母たち4組が祖父母2組に、続いて祖父母たちが父と母に生を与え、“今”ここにぼくがいる。自分はどこから来たのだろうなんて考えてしまうのは、50歳という節目を迎えたからなのか、それとも、多くの年月を重ねてきたからなのか。

【宣言】
 40代は発見の10年だった。生涯の宝となるようなものに数多く出会えた。毎日がおもしろくてあっという間だったが、50代は更におもしろくなるような気がしてならない。何かを探し続けた10代の1日と多くを捨てて目的を絞りきった今の1日とでは訳が違うからだ。進むべき道はひとつ。覚悟は決めた。そのために何をするべきかは分かっている。ぼくは今、50代の第一歩を踏み出した。

 


(C)2011 SHINICHI ICHIKAWA
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