<百八十三の葉>
東日本大震災(二)

 まだ肌寒い4月初旬の月曜日。久しぶりに実家で眼を覚ました。正月以来の里帰りだ。日曜の夜に都内から車を走らせたのだが、道が空いていて1時間40分ほどで着いた。いつものように母の手料理をたんまりと食べ、それ以上にたっぷりと四方山話をしてから寝た。実をいうと一日も早く帰ってきたかったのだが、スケジュールが言うことを聞かずに4月を迎えてしまった。どうしても訪れたい場所があったのだ。

 ぼくの実家から東に10kmほど行ったところに旭市がある。東隣の銚子市と西隣の匝瑳市に挟まれた存在感のある街だ。この旭市が、津波に見まわれた。岩手、宮城、福島、茨城の惨状は常に気にしていたが、千葉が、それもなじみのある場所が被災していたという事実は、震災後、数日してから知った。被害の概要は、後輩がメールで知らせてくれたのだが、結果的に旭市だけで約1000軒の家が全半壊し、20名近くの人が亡くなってしまった。被害の規模は東北とは比べものにはならないが、被災した人たちの苦しみや辛さに何ら変わりはない。家を失った友だちもいる。実際にこの眼で被害の実情を見ておかなければならないと思った。

 平成17年7月、旭市、飯岡町、海上町、干潟町の1市3町が合併して人口7万の新しい旭市が生まれた。家康が秀吉の命で江戸に移ったときに、木曽義昌もまた秀吉から現在の旭市の一部に1万石の所領を与えられた。“旭”という名は、木曽氏の祖先である源(木曽)義仲が旭日(きょくじつ)将軍と言われていたことに由来しているのでは、と勝手に思っているのだが、そうであってもなくとも九十九里に相応しい美しい名だ。東洋のドーバーと言われる屏風ヶ浦を知っているだろう。幕末に世界で初めて農業協同組合を創設した農民指導者の大原幽学は旭に居を構えていた。同時代に任侠の大親分として名をとどろかせた飯岡助五郎は、飯岡の網元としても活躍した人物で、市内に彼の墓がある。

 同じ九十九里浜でも沖合の地形によって、津波の被害の大きさが違った。飯岡海岸は遠浅で海水浴やサーフィンにはもってこいだが、海底のなだらかな地形が津波の加速を呼び起こしてしまうそうだ。ぼくの町の海岸はというと、砂浜からしばらく行くと海底が大きく沈みこんでいて、津波はそのアゴの部分に力をそがれてしまうということだった。逆に言うと、海水浴にはあまり向かない。毎年、何人かが海底に引きずり込まれている。『成田山新勝寺の本尊である不動明王様があがった海岸だ。でえじょうぶに決まっている』と土地の漁師たちは言っているようだが、その不動明王も元禄津波の威力には敵わなかったようだ。1703年(元禄16年)の大晦日に千葉県沖を震源とする大地震が発生、直後に関東地方を襲った津波では木戸浜海岸も甚大な被害を受けた。


 昼飯をしっかり食べてから車を発進させた。途中、同級生がやっている美容院に顔を出し、ある程度の情報を得た。この美容院には同級生のみんなが立ち寄るから情報は豊富かつ確かだ。「浜さくだってまっつぐ行ってみろえ」なるほど、分かった。再び車に乗ると海辺に向かって下り、海岸道路を東に進んだ。傷跡が転々と現れてきた。いよいよか、ぼくは気を引き締めた。旭市の旧飯岡町に入ると、大きな看板が目に入った。『被災箇所片付け中につき関係車両以外の通行をご遠慮願います』と書いてある。「すみません、ちょっとだけ失礼します」ぼくは、心の中で頭を下げてからゆっくりと車をすべらせた。同時に感じたことのない緊張が体を走った。

 道の両脇には、倒壊した家屋や押し倒された木々が重なっていた。「なんだ、これは…」言葉にならない。見慣れたはずの景色が激変していた。ぼくは、迷惑にならないようにと適当な場所を探し、車を停めると砂浜へと向かった。心を落ち着かせるためだ。太平洋は、九十九里の海は、以前と変わらない。キラキラと光を反射させ大きな波を黙々と運んでいた。しばらくして動揺が鎮まってから、ぼくはゆっくりと体を反転させた。そこには“瓦礫”の山があった。毎日のようにテレビで見ているあの風景だ。身近な町が同じような被害に遭っていたのだ。まぎれもない現実だった。瓦礫とは、瓦(かわら)と礫(小石)だ。礫は“つぶて”“たぶて”とも読む。瓦や小石がなぜ“建物の崩れた残骸”という意味で使われるのか疑問に思ったが、すぐに納得した。“粉々に”ということなのだろう。ぼくは、歩きながら瓦礫を見つめ続けた。服がある。靴がある。本がある。ノートがある。テレビがある。机がある。椅子がある。野菜がある。ジュースの缶がある。家の壁にしてもドアにしても窓ガラスししても、日々の生活にはなくてはならないものだ。何もかもが、毎日の生活の中で使われていたものばかりではないか。瓦礫とは、人々と濃密な関係があった“もの”たちの変わり果てた姿だった。

 旭市の瓦礫を完全に処分するだけでも10年はかかると、解体業者がテレビで言っていた。なんということだ。そんなにかかるのか。ぼくは甘く見ていた。東北では、この何倍、何十倍、いや、何百倍の規模の被災地が広がっているのだ。唇を噛みしめるしかなかった。黙って車を走らせ、飯岡港、飯岡灯台、そして、以前、講演をさせていただいた飯岡中学を訪ねた。飯岡中では、知り合いの先生に話を聞くことができた。被害を受けた人たちは、津波の第一波が去った後、家や職場に様子を見に戻り第二波に襲われたのだそうだ。子どもたちは避難して全員が無事だった。

 ぼくは、最後に飯岡小学校へと向かった。3ヶ所ある避難所のひとつだ。車で堂々と入っていくのは失礼だ。ぼくは、避難所をゆっくり一周すると近くにあった小売店に車を停めた。海水の跡も生々しい店内には、パンやお菓子、飲み物等が置いてあった。ぼくは、アンパンと牛乳を買い車の中で食べた。そして、一呼吸おくと歩いて避難所へと向かった。避難所は、きれいに整備されていた。ゴミひとつ落ちていない。校庭には車が整然と停めてあった。被災者の方々の車だろう。食事を室内に運び入れる人がいた。看護師さんがてきぱきと動いていた。ぼくはといえば…何もできなかった。息を殺したまま、とにかくそっと、そっと歩いた。建物の中はおろか、避難所の中を歩くだけでも申し訳なく思えて、ただただ心の中でがんばってくださいと祈るばかりだった。

 数日後、天皇皇后両陛下が旭の避難所を訪れてくださった。千数百年に渡ってこの国の柱であり続ける皇室の力は計り知れない。ありがたいことだと思った。4月29日には、ロッテ・マリーンズのサブロー選手が旭市の少年野球チームをQVCマリンフィールドに招待した。ベンチ上の最高の席でマリーンズ対ホークス戦を観戦した少年たちのユニホームの胸には『iioka』の文字が誇らしげに躍っていた。

 
(C)2011 SHINICHI ICHIKAWA
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