<百九十の葉>
ビバ!昭和51年度光中学校卒業生

 2011年7月17日、中学校の同窓会があった。いつものクラス会とはちょっと違う。ぼくが学んだ3年2組だけではなく、1組から4組まで、昭和51年度光中学校卒業生が一堂に会したのだ。ぼくたちは今年で50歳を迎える。それを機に一度集まろうということになった訳だが、発案者、そして幹事の皆さんには心から感謝したい。ありがとう!この日は、心があたたかいもので満たされた一日だった。ぼくたちは10代前半のまぶしかった日々を懐かしんだ。

 他のクラスの友だちと会うのは久しぶりだった。卒業してから35年振りという人もいる。卒業してからこのかた、4クラス合同で集まったのは2度しかない。成人式と12年ほど前に催された第1回目の合同クラス会だけだ。残念ながら、本当に残念ながら、ぼくは、前回の4組合同クラス会には出席できなかった。連絡をもらったときには、すでにスケジュールが入っていて唇を噛むしかなかった。今度こそはと、ぼくは、この同窓会が発案された段階で、挙がっていた候補日の中から出席可能な日を見つけ『この日、この日ならなんとかなる、お願い!』と幹事に頼み込んだ。こうして、ぼくは遠足を待つ小学生のような気持ちで7月17日を迎えた。

 同窓会だが“同窓”という言葉がなんともいい。窓は教室を表す言葉だ。同じ教室で学んだという意味だが、教室や校庭ではなく“窓”を持ってきたセンスが素晴らしいと思う。中国の古典から来ているのではと思い調べてみたがやはりそうだった。出典は晋の歴史書「晋書」車胤伝・孫康伝。車胤(しゃいん)という人は、貧乏でランプの油を買うお金がなく蛍を集めその灯りで勉強した。また、孫康(そんこう)という人は窓際の雪明かりで書物を読んだ。ということから、苦学すること、学問に勤(いそ)しむことを“蛍雪”と言うようになった。あの名曲の歌詞『蛍の光、窓の雪』がそれだ。それにしてもこの故事から“同窓”とした日本人の感性も素晴らしいではないか。今、何も知らずに読んでも『同じ窓から空を見ていた友』と想像できる。詩人でなくては浮かばない表現だ。学校の窓は大きい。教室内に光をたくさん入れようとの配慮もあるだろう。何はともあれ、教室の窓から見た空の青さは、格別だった。


 平成18年、光町は横芝町と合併して横芝光町となった。光中学校は、旧光町にあった唯一の中学校だ。光町にはよっつの小学校があり、小学校の卒業生はほぼ全員が光中学校に進んだ。つまり、町に住む同年生まれの人は全員が光中の同級生ということになる。町のどこに行っても顔見知りの友だちがいるというのは何とも安心だし、仲間意識も自然と高まった。1クラス42名だったから4クラスで168名。特別クラスの友だちを加えると170名ちょっととなる。同級生全員と友だちになるにはぎりぎりの数だったかもしれないが、小学校時代の友だちやクラブ活動の仲間を通して、ネットワークは他のクラスの隅々にまで広がった。

 手元に3年2組の名簿がある。ざっと見て驚いたと同時におおいに納得した。住所欄のほとんどが千葉県で始まっているのだ。42名中、大阪1名、東京1名、長野1名、秋田1名、神奈川3名で、他の35名は千葉県に住んでいる。それも、横芝光町や匝瑳市、旭市、多古町等地元がほとんどだ。他のクラスも同じようなものだろう。ぼくにとっては、こんなにうれしいことはない。実家に帰れば同級生の80%以上が近くに住んでいるということになる。『いついつ帰るよ』と電話をすれば何人かがすぐに集まり、何とはなしにミニクラス会が始まる。

 7月17日も暑かった。ジッとしているだけでも汗が噴出してくるような暑さだった。4組合同クラス会の会場は、友だちが勤めている成田のホテルだ。直接成田に行く人以外は、大型バスで向かうことになっていた。旧光町役場に集合して2台の大型バスで成田に向かう。ぼくは当然バスを選んだ。意地でもバスだ。これほどのシチュエーションを逃す手はない。楽しいに決まっている。ぼくは、前日の深夜遅くに実家に帰り、当日は張り切って30分前に役場に行った。成田までは車でほんの30分だが、バスで向かうなんて心憎い演出だ。幹事がそこまで計算していたのか、必然だったのかは分からない。だが、みんなと一緒に大型バスで出かけるなんて中学校の修学旅行以来だ。盛り上がらないはずがない。役場の駐車場には同級生がぞろぞろと集まって来た。すぐに分かる人もいれば、まったく思い出せない人もいる。『おめえ、誰だっけ?』(よく考えるとすごい質問だ)とか『何組だあ?』というような声があちこちから聞こえてくる。2組のI先生も元気に駆けつけてくれた。

 成田のホテルには約70人が集まった。第1回目は120人以上集まったというから少々寂しい気もするが、70名もかなりの数だと思う。最初だけはちらちらと周りを伺っていた友だちもいたが、ものの5分もすれば会場は昭和51年の教室とまったく変わらない状況になった。壁際には豪華な料理が並んでいたが、さすがのぼくもまったく目に入らない。料理を取りにいく時間さえもったいないのだ。1組の席から順に回って話かけていく。みんな見かけは50歳だが、中身は変わってなんかいない。中学生のときのまんまだ。子どもの頃は、おとなの自分なんて想像もできなかったし、したくもなかった。子どもからおとなに“変わる”のではなく子どもの自分を残したまま“成長する”のだということを、ぼくたちは身をもって体験した。

 最後にクラスごとに記念写真を撮った。真ん中に座る人、端っこに立つ人、位置取りの人間模様さえも当時と同じだ。おかしくてたまらない。剣道部、テニス部等部活ごとの撮影になった。その時…

「無線部の撮影〜!」

という声とともに、元無線部の3人が壇上に立った。(厳密に言うと、ひとりはかなり嫌がっていたが)個性豊かな無線部の出現にみんな大笑いだ。ぼくは、その中のひとりに素朴な疑問を投げかけた。

「無線部って何してたの?」

彼は答えた。

「無線やってた」

 聞いたぼくがばかだった。それにしても、携帯電話が使われるようになってからの無線部の活動は考えにくい。今でも無線は無線で用途があるのは分かるが、部活動としての無線部が存在しているのかどうかは分からない。


 3時間はあっという間に過ぎた。お互いの“子ども時分を知っている”ということが、“気を許せる”と同意語だと改めて納得し、そんな中に身を置くことの心地良さを久しぶりに味わうことができた。帰りのバスが更に盛り上がったのは言うまでもない。光中の近くの店で開かれた2次会にも50人以上が参加した。2次会から参加した友だちもいて更に熱を帯びる。ぼくは、ほとんど行くことのないカラオケスナックでの3次会にも勇んで付いて行った。その日のうちに東京に戻らなければならなかったが、どこまでも付き合いたかったのだ。

 ぼくは、他の世代を知らないし、他の学年も知らない。それでも『昭和51年度光中学校卒業生は最高だ!』と叫びたい。決して独善的な思いからではない。誰もが、すべての世代の人たちが、自分の世代を、自分の年代を最高だと思える社会が正常なのだと思う。

 2次会の最後にぼくは言った。

「10年後にまた集まりましょう!」
 だが、今、ここで訂正したい。10年も待ってはいられない。5年後、いや、3年毎でもいい。早く集まろうよ!

 世界中の人たちと同じように、ぼくも生まれ育った町が、愛(いと)しくてならない。特別な何かがなくても、ありふれた景色だったとしても、無条件で受け入れてくれる友がいるこの町を、ぼくたちは生涯愛し続けるだろう。日本人にとって(いや、ぼくたちの世代にとってか、ぼくにとってか)“愛する”という言葉は、どうにも使い難(にく)くしっくりこないと思っていたが、こういう場合にこそぴったりくるのだと気付いた。ぼくは、“愛する”という言葉を、今、初めてすっきりと使えたような気がする。
(了)



(C)2011 SHINICHI ICHIKAWA
-------------------
PAGE TOP
目次
ESSAY TOP
BBS
HOME