<百九十二の葉>
ベースのススメ(四)

「ベースってどんな楽器?」
「ベースってどんな音がするの?」

 未だにこのような声を耳にする。ベーシストとしては悔しい気もするが、これは否定しようのない事実だ。推測だが、7割以上の人たちがベースの音を認識できずに音楽を聴いているのではないだろうか。『ベースという楽器の存在は知っている。だが、いったいどんな音を出す楽器なのか分からない』というのが一般的な見解だろう。楽器を演奏する人や音楽好きの人にしてみれば『ええ〜っ、ホントに知らないの?』ということになるが、音を聴き分けるというのは予想以上にむずかしい。音楽の流れの中からベースの音やフレーズを聴き取れるようになるには訓練が必要とされる。

 ベースのススメ(一)でも書いたが、周波数によって、人間の耳が捉えやすい音と捉えにくい音がある。通常、人は、下は20ヘルツ、上は、個人差があるが、15,000〜20,000ヘルツ程度の音を音として感じている。(この周波数帯域を可聴域といい、可聴域を越えた周波数の音のことを超音波という。)つまり、単体で演奏すれば、どんな楽器の音でも可聴域の範囲内である限り、人の耳は認識できるということだ。それはそうだろう。コントラバスが奏でる地を這うような低音でも、単体ならばはっきりと聴き取ることができる。

 問題は、いろいろな楽器を一緒に演奏したときだ。音の組み立てやアンサンブルによっては、認識しづらい音が出てくる。人の耳は、人間の声やギターの音域のように捉えやすい音ばかりに集中してしまい、ベースのように極端な低音は、その陰に隠れてしまったかのように耳に入らなくなってしまう。完成された楽曲のようにいろいろな音が一緒に鳴っているとき、人の耳は、“意識しなければ”聴きとりやすい音に集中してしまうのだ。そんなとき、本当は“聞こえている”のに“聴こえない”という現象が生まれてしまう。“意識しなければ”と書いた。ここが味噌だ。人は、聴こうと“意識すれば”音を聴き分けることができる。同じ場所にいても、耳に入ってくる音を漠然と聞いているときと、何かの声や音を聴き取ろうと耳をそばだてたときとでは、聴こえ方がまるで違う。普段、ぼくたちは、無意識のうちにそういうことをしているのだ。雑踏の中で何か音を聴き取ろうとしてみてほしい。すぐに分かっていただけるはずだ。聴力に限らず五感の潜在能力は驚くほど高い。訓練次第だが、誰でも楽曲の中のベース音を聴き分けられるようになる。

 一般的には、音楽を聴くというのは、“1曲を通した印象”を聴くということだ。抽象的な表現で分かりづらいとの声が聞こえてきそうだが、ぼくの感覚では、この表現こそがしっくりくる。全体の雰囲気が大切なのだ。それに比べて、ミュージシャンやレコーディング・エンジニア、コンサート・エンジニア等音楽を生業としている人たち、または、筋金入りの音楽ファンは、一般の方々とはあきらかに違う聴き方をしている。例えば、ぼくたちベーシストはどのような聴き方をするのか、いくつか例を挙げてみよう。

 まずは、『ベースを使っているかどうか』ということが気になる。どういうことなんだ?と思われる方もいるだろう。昨今は、楽曲にベースのようでベースではない、ベースの音に似た音が使われることがある。シンセサイザー等キーボードの鍵盤、あるいはパソコン上の鍵盤を使って作るベース音のことだ。今やパソコンを使いこなせる人ならば、楽器が弾けなくても録音できるようになった。本物のベース音をサンプラー等で録音したものが音源として売られているのだ。音楽の制作費が少ないと、ミュージシャンをひとりでも少なくしてギャラを抑えようとすることがあり、キーボード・プレーヤーがベーシストの代わりもこなすことになる。当然、ベーシストの出番はなくなる。ベーシストにとっては死活問題だ。機械で作ったベース音は正確無比だが、生の音に比べると温かみに欠ける。音楽は正確だからいいという訳ではない。奏者の呼吸や楽器の息遣いが聴こえてくるからこその音楽なのだ。ライブはそれを実感できる最高の場だ。その場にいなくては体験できないということが、どれほど価値のあることなのか、もう少し、見直されてもいい。

 『どんな楽器を使っているか』次に注目するのがこれだ。楽器の種類が気になる。ベースの機種は、大きく分けるとそれほど多くはない。プレシジョン・ベースやジャズ・ベース等のフェンダー系のベースなのか。ギブソン系か、リッケンバッカーか、セミアコか、アコベか。パッシブなのか、アクティブなのか。4弦なのか、5弦なのか。ラウンド弦なのか、フラット弦なのか。指弾きなのか、ピック弾きなのか。アンプは何を使用しているのか。マイク録りなのか、ライン録りなのか。同じ「E」音でも、4弦の開放弦と5弦の5フレットとでは微妙にニュアンスが違う。『運指の都合上、この「E」は、3弦の7フレットではなく、2弦の2フレットを使ってる』だとか、『この 「E♭(フラット)」は、5弦の4フレットではなく4弦を半音下げチューニングした音だ』とか、ぼくたちは、瞬時にして音を聴き分ける。プロとして活動しているベーシストならば皆このような能力を持っている。

 ヒットチャートに並ぶ曲のほとんどは歌がメインだ。カラオケの演奏は歌を引き立てるためにある。歌が主役には違いない。その歌を包むのが名脇役としての伴奏だ。印象的なイントロのフレーズ、そして、耳に優しい歌声、心地いいメロディーライン、サビを盛り上げるストリングス等が曲に彩りを与える。音楽プロデューサーやディレクターは、不特定多数の音楽ファンに、全体を通して好印象を与えられるように曲をまとめていく。

 制作費が比較的少ないと思われるカラオケの音源は、パソコンとキーボードのみで作られることが多い。取り込むのがむずかしいギターの音ですら、キーボードの音で代用されていることもある。だからなのか、ぼくたちミュージシャンはカラオケの音が苦手だ。音を聞いているだけで苦しくなってしまうのだ。シンセサイザー等の鍵盤から紡ぎ出されたベースやギターの音が悪いという訳ではない。作り手の気持ちがこもっているものなら作品と言えるだろう。だが、指先から紡ぎ出される音の奥深さを知っているミュージシャンにとっては、このような音作りの現実は歯がゆくてならない。

「ベースってどんな楽器?」
「ベースってどんな音がするの?」

 こう言われてもいい、とベーシストは思っている。どんなタイプのベーシストであっても、心のどこかに『分かる人に分かってもらえばいい』という想いがある。ヒット曲の中で生のベースが鳴っていたのなら、その音は、ぼくたちベーシストの想いの結晶だ。じっくりとその息吹を感じてほしい。そして、ぜひ、ライブに足を運んでもらいたいと思う。生のベースの良さを味わうのに、ライブ以上のものはないのだから。


(C)2011 SHINICHI ICHIKAWA
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