<百九十八の葉>
九十九ボーイ・第2部
欅物語(一)

 欅学園は、吉祥寺の駅から北西に向かって15分ほど歩いたところにある。駅から吉祥寺通りを北上し、右手にある月窓寺を過ぎると五日市街道にぶつかる。その交差点を左に曲がり10分ほど歩くと右手が欅学園だ。正面に顔を向けると初めての人なら誰もが感嘆の声をあげる。見事な欅並木と並木越しに見える校舎の美しさに心が沸き立つからだ。この欅並木は学園が吉祥寺に移転した後、1924年(大正13年)に植樹された。本館前と外周路を合わせて約120本の欅がそびえ、学園だけではなく武蔵野市のシンボルとして、卒業生や市民にも愛されている。

 エイチは、入学試験で初めて訪れたとき、この光景を見て自分が学生生活を送るのはここだと決めた。学校の佇まいが進路の決め手になってしまうなんて、若さとはなんと極端な決断をさせるものなのか。だが、この単純な発想も悪くはない。閃きや直感が人生を方向付けることもあるからだ。幸か不幸か、予告通りに欅学園に合格したエイチは、この門を堂々とくぐることを許された。

 1980年4月10日、エイチの学生生活2日目が始まった。足取りは軽く、空は抜けるように青い。予定より早く家を出ると、駅までゆっくりと歩いた。今日は何が待っているんだろう。期待が体を弾ませる。駅までの道沿いには、民家に混じって畑が点在していた。引っ越してきたばかりだったが、エイチには見慣れた景色のように思えた。19歳まであと少し、18歳の春だった。

 西多摩郡にある下宿先から電車を乗り継いで吉祥寺に着くまで、1時間はゆうにかかった。下宿だけは当てが外れたな。エイチは、気を取り直すと足を踏み出した。九十九里平野で育ったエイチにとって、吉祥寺の街は十分すぎるほどの都会だった。都会でありながら、繁華街からちょっと離れると緑があふれているところもうれしかった。ただ、下宿先が遠すぎた。東京イコール都会と思っていたエイチは、西多摩郡と聞いてびっくりするどころか、住まわせてくれるという親戚の声を聞いただけで有頂天になってしまった。吉祥寺から中央線で立川まで行き(ここまではいい。予測の範囲だ、もうすぐか?)青梅線に乗り換える。(えっ、乗り換え?)立川から拝島の間には、駅が4つもある。拝島から、再度、八高線に乗り換えて(どこまで行くんだ。)ふたつ目が箱根ヶ崎だった。しかも、ドアを手で開けて乗る電車は初めてだった。どえらいところに来てしまった。エイチは、事実を知って焦ったが後の祭だった。確かに吉祥寺も多摩の一部だが、多摩地区が東京都の3分の2を占めるほど広いということを知らなかった。地図を見れば一目瞭然だったのに。しかも、地図上では、西多摩郡は山梨県と埼玉県に食い込んだかっこうになっている。結局、エイチは、吉祥寺を22時に出ないと帰り着けない場所に住むことになってしまった。ただ、エイチは、下宿として家を提供してくれたおじさんには感謝していた。船乗りとして1年のほとんどを海上で過ごしているおじさんは、快く家の2階を提供してくれたのだ。

 前日の入学式で手にした書類の中に、サークル紹介のページがあった。活動内容や目的が書かれ、部室の場所が地図で示されていた。目は、自然と音楽サークルを探していた。どんなのがあるんだ?完全に上から目線だ。この時点でのエイチには、学生仲間とバンドを組むという選択肢はなかった。学業の合間にバンドをやってる軟(やわ)な奴とは違うんだ、という変な思い込みがエイチの心を支配していた。自分も学生だということを完全に忘れている。いや、無視している。これほどまでに自分を特別視できるなんて、やはり若さは恐ろしい。それにしても、学生=軟、社会人=硬、という図式は完全に間違っている。学生だろうが、社会人だろうが、本気の人は本気だ、ということにエイチが気付くのはもう少し先のことだ。

 欅学園には、いくつかの音楽サークルがあった。「軽音楽部」「フォークソング・ソサエティ」「ロック研(AMP)」「ジャズ研」…。問答無用だった。エイチの考える音楽には“軽い”とか“フォーク”とかいう言葉は合わない。完全にアウトだった。そして、“ジャズ”は遠すぎた。“ロック”!これしかない。(AMP)カッコ・アンプなんてなかなか憎いじゃないか、と心のどこかで喝采しながらも、所詮は学生じゃないかというのぼせた考えが、素直な思いを一瞬にして押し殺した。エイチは、とりあえず、あくまでもとりあえずだが、ロック研を訪ねてみることにした。目的地は、教室から少し離れたところにあった。欅並木を通り抜け、本館を横目に見ながら5号館、4号館、7号館、9号館を過ぎると2階建てのプレハブが3棟並んでいる。ここだな。これらのプレハブの建物は仮のもので、隣には、工事中の建物があった。新築中の部室棟だ。“学生に用のない”オレにはちょうどいい。エイチは、地図をもう1度確かめると、一番手前のプレハブの階段に足をかけた。 (つづく)



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