<二百一の葉>
真実ICHIRO

 2012年3月28日、東京ドームでメジャーリーグの開幕戦が行われた。昨年、MLB(メジャーリーグ・ベースボール)と選手会は、東日本大震災の復興支援の一環として、シアトル・マリナーズとオークランド・アスレチックス(※日本での開幕戦が発表された時点では、松井選手は、まだアスレチックスの一員だった)、日本人スターがいるこの2チームの対戦なら、日本の皆さんが喜んでくれるに違いないというメジャーリーグと選手会の粋なはからいだった。残念ながら、松井選手はアスレチックスを去ってしまったが、今年から川崎選手と岩隈投手がマリナーズの一員となり、彼らもメジャーリーガーとして堂々の来日を果たした。

 イチローが真剣勝負をする姿をどうしても見たい。この機を逃してはならない。日本で開幕戦があることを知ったぼくは、どうにかチケットを手に入れる術はないものかと考えを巡らせた。3月28日と29日に公式戦が2試合、そして、開幕戦前に読売ジャイアンツと阪神タイガースとのオープン戦が2試合決まっていた。公式戦のチケットを手に入れるのはむずかしいかもしれない。最悪でもオープン戦には行きたい、と調べてみると、これら4試合のチケットの先行販売があった。電話やネットによる先着順ではなく抽選だ。どちらにしても“運”次第だが、抽選の方が平等だ。第1希望から第3希望までそれぞれ4枚ずつ申し込むことができる。ぼくは野球好きの友と生徒に声をかけ、いの一番に申し込んだ。第1希望は外野指定席(1塁側)。言うまでもなくライトスタンドだ。イチローの守備を間近で見ることができる。第2希望は内野指定席C(1塁側)、第3希望を内野指定席C(3塁側)とした。ともに2階スタンドだ。

 数年前から球場での野球観戦を楽しんでいるが、昨年、目を開かせられることがあった。球場に通い始めた当初は、グラウンドに近い席がいい席だと信じていた。2階席や外野席からでは選手が豆粒にしか見えない。そんな席で見ても楽しめるはずはないと思い込んでいた。そうなると当然、バックネット裏やベンチの上等、少々高くても少しでもダイヤモンドに近い席を選ぶようになる。ところがだ。ある日、東京ドームのレフトスタンドで試合を観戦する機会があった。マリーンズのファームの試合だったが、バックネット裏以外は、どの席で観てもいいとあった。いい機会だと思い、すべての席に行ってみることにした。そして、マリーンズの応援団がいるレフトスタンドに立った瞬間、その見晴らしの良さと開放感に唖然としてしまった。『こんなに眺めがいいものだったのか』はるか遠い席と思っていた外野席や2階席は、球場全体をパノラマで見渡せる特等席だった。

 外野席や2階席はほとんどの場合自由席だ。空いていれば、ひとりで2席、あるいは3席使うこともできる。周りを気にせずにゆったりと観戦できるのもいい。守備隊形や選手の微妙な連動までも見取ることができる。ぼくには、2階席や外野席が、プロのピッチャーの投球を間近で見られるバックネット席と同じぐらいの価値があるように思えた。更に値段は半分以下だ。知らないということは恐ろしい。

 抽選申込み後、数日経って結果が送られてきた。第2希望の内野席C(1塁側)が当選していた。さて、28日東京ドーム。試合前、両国の国歌が斉唱され(君が代は杉良太郎さんの独唱だった)、日米両国の国旗の間に世界語となった“TOMODACHI”の旗が翻った。大型スクリーンには、クリントン国務長官の被災地に対する熱いメッセージが流れた。セレモニーの最後は、始球式だ。東日本大震災の被災地支援に貢献した3人が並んだ。感動的な光景だった。

 試合が始まる。メジャーリーグの試合では応援に太鼓や管楽器などの鳴り物は使われない。だから、5万人が息を呑むとキャッチャーが捕球する音までリアルに聞こえてくる。試合が普通に流れている時は静寂と言ってもいいぐらいの空気が球場を包み、ここぞという時には喚声が湧き起こる。当たり前のことが心地いい。日本人選手とメジャーリーガーの大きな違いは“肩”だ。メジャーリーガーは一様に肩がいい。そんな中でも特別に肩がいいのが我らのイチロー!『レーザービーム』が彼の代名詞だ。ここで、威張りたくなるのは決してぼくだけではない。

 5万人の目的は当然のことながら背番号『51』だ。彼をひと目見たいがために日本中から野球好きが集まっていた。イチローは今シーズンから3番を打つことになった。昨年、メジャー1年目から10年続けていたシーズン200本の安打(10年連続はメジャー記録!イチローのみが達成している)が途切れた。200本というとてつもない数字を自分自身に課し、野球ファンからも課せられていた彼は、重圧から解き放たれた。200本がノルマだった昨年までは、1回でも多く打席が回ってくる1番が指定席だった。だが、WBCの日本代表で3番を務めたように、現在のイチローは強打者の証である3番も適正と言える。

 イチローの背中には5万人の期待が注がれていた。その圧力たるや半端ではない。そんな5万人の思いを一身に受け、平然とバッターボックスに入るイチローの姿に目頭が熱くなった。ピッチャーが投球動作に入る。ものすごい数のフラッシュだ。ピンク・フロイドのコンサートにも負けないだろう。自然発生的に生まれるのだから、それ以上かもしれない。若者たちからも『かっこいい〜!』という言葉がため息のようにもれている。

 イチロー自身も『恐ろしい緊張感だった』と語っている。彼にとっても特別な試合だったのだろう。過剰とも思えるぼくたちの期待に、倍返しどころか4本のヒットで応えてくれた。本当にすごい男だ。第1打席は、イチローならではの内野安打だった。次打者の2球目、彼は走った!盗塁だ。だが、打者は2番バッターではない。4番バッター・スモークは振りに行った。ファウルボール。イチローは完全にモーションを盗んでいた。スモークが振らなければかなりの確率で盗塁が成功していたはずだ。身びいきだと分かってはいてもぼくは叫んでいた。「スモーク〜、空気読めよ〜!」 唯一出塁できなかった第4打席も惜しいあたりのレフトライナーだった。延長11回で迎えた5打席目は、だめ押しのタイムリーヒット。ここで打ってくれという場面でヒットを放つイチローの底力を見た。

 イチローのすごさは、人並みはずれた打撃や守備、走塁だけではない。生活のすべてを野球に結び付け、準備を欠かすことのないその“姿勢”や、いつでも真実を語ろうとする“誠実さ”にもある。ぼくたち5万人は、イチローが試合後のヒーローインタビューに登場するだろうと待った。だが、彼は現れなかった。ヒーローは、先制点のホームランを放ち、勝ち越しの打点を挙げたアクリーだと無言でぼくたちに告げていた。イチローは、この試合でも真実を貫いた。

【真実一路】

『偽りのない真心をもって一筋に進むこと』
『ひたすらにおのれの真実をつくすこと』

 まさに、イチローの姿勢そのものだ。彼の生き方は『自分の道を突き詰めようとすることの大切さ』を教えてくれる。 (了)


(C)2012 SHINICHI ICHIKAWA
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