<二百十一の葉>
アリガッサマリョータ!(四)

 8月29日。窓のカーテンから漏れる強い陽射しで目が覚めた。何時だ?ぼくは、そろそろと手を伸ばし携帯を探し、うっすらと目を開けて時間を確認した。10時半だ。昨夜は、目覚ましをかけないで寝た。目覚ましをかけないで寝るというのは、何とも気持ちがいい。かけないからといって、若いころのように12時間も寝るという訳ではないのだが、○時に起きなくてはならない、というプレッシャーがあるのとないのとではまったく違う。

1.10時に目覚ましに起こされた。
2.目覚ましをかけたが10時前に目が覚めた。
3.目覚ましをかけずに寝て、起きたら10時だった。

 どの場合でも、同じ10時に起きてはいるが、意味合いが、寝る前の心構えが、まるで違う。毎日決まった時間に寝て、決まった時間に起きる人は長生きするという。残念ながら、この点に関しては、ぼくは0点だ。12時に寝て7時に起きるということができない。夜の7時ごろに寝てしまうこともあれば、朝、朝刊を読んでから寝ることもある。“眠いときに寝る”というワイルドな生活が30年来続いている。7時に寝ると夜中の1時頃に目が覚める。それから、風呂に入って譜面の整理や細々とした仕事をしているとすぐ朝だ。そのまま眠くならないのならいいが、6時を過ぎると瞼が重くなってくる。ぼくだけではないだろう。仕事の時間が不規則な人が陥りやすい状況で、いわゆる体内時計が完全に狂ってしまっている。現代の医学からすると、長生きという点においては致命的と言ってもいい。ただ、睡眠に関する研究が進んでいるとはいえ、脳自体が完全に解明されてはいないので、眠りについてもまだまだ分からないことだらけだ。規則的な睡眠は○、不規則な睡眠は×。この通説がそのうち覆る可能性だってないことはない、なんてことはないか。

 藤田さんとは、何の打ち合わせもしていない。何時にどこで待ち合わせるかも決めていなかった。お互いにマイペースだ。それが気にもならないし、敢えて言うならば、自分のペースで行動できるのが心地いい。こちらはこちらで、目覚めたら電話がかかってくるだろうくらいにしか思っていない。まずは風呂だ。部屋の風呂ではなく大浴場に行く。部屋にある案内には、バスタオルは持参してくださいとあるから、浴衣に着替え、バスタオルと風呂セットを持って11時に部屋を出た。

 風呂の扉を開けると誰もいない。しめしめ、独り占めだ。ぼくは、ほくそ笑む。昼間の大浴場もおつなものだ。かけ流しの湯の音が沁みる。お湯は適温だった。体の芯まで温まると、いつものように上から順に、髪を洗い、体を洗い、髭を剃った。不思議なことに40分以上経っても誰も入ってこない。いい湯なのになあ。ぼくは、そのまま開放感に満たされる。35歳から伸ばしている髪は臍の辺りまである。白髪を炭色( アッシュ)に染めてはいるが、染料が落ちてくると薄い茶色や金髪に近い色も出てくる。まだ黒い部分もあるから、頭上では様々な色がせめぎ合う。ぼくが髪を洗っているのを見たら引く人もいるだろう。少なくとも、ぼくが他人だったら近づきたくはない。髪を洗っている間は誰も来てくれるなよ~と願いながら髪を洗い、再び、湯船に浸かった。そろそろ出るか。それにしても、気持ちよかったな。ぼくは、ちょっとだけ後ろ髪を引かれる思いで脱衣所へと向かった。

 じわじわと流れる汗を冷ます時間はある。ひとりだけの空間もある。完璧だ。腰にバスタオルを巻き、濡れた髪はまとめて上からタオルで覆った。12時になったかならないかのころ、勢いよく戸が開いた。おっ、誰か来た。いいタイミングだ。だが、なぜだか、その人はハッとしたようにぼくを見た。ぼくは、ひるまずに軽く会釈する。彼は会釈を受けたか受けなかったか微妙な感じのままぼくの横を通り過ぎた。そして、服を脱ぎ始める。その途端、再び戸が開きゾロゾロと人がなだれ込んできた。ずいぶんたくさん来たな、団体かなと他人事のように思ったとき、ふと、壁に貼られていた文字が目に入った。

 「昼の風呂は12時から」と書いてある。『あっ…』やってしまった。知らなかったんだからしょうがない。ぼくは、素知らぬ顔のままで通し、きちんと入浴時間を守った皆さんが風呂場へと消えて行くのを、それこそ横目で見ながら堂々とドライヤーを使った。心の中では、『スミマセン…マチガエマシタ。ケッシテ、ワザトデハアリマセン』と繰り返しながら。

 部屋に帰ると12時を15分ほど過ぎていた。携帯を見たが藤田さんからの着信もメールもない。さあ、次はご飯だ。だが、ぼくは、この時すでにどこで食べるか決めていた。今し方上がってきたエレベーターの中に、隣のレストランのランチが紹介されていた。あまりにもベタだがここでいい。釣られてみよう。フロントの人に聞くだとか、パー子さんに電話をするだとかいう考えは浮かばなかった。ぼくは、着替えると、張り紙の誘導のままに隣のレストランへと向かった。食事の後、することがたくさんあったから、居心地を考えて食後もゆっくりできそうな席を選んだ。お客さんはちらほらだ。店の真ん中には鶏飯が用意されていた。席に座ってメニューを見るとランチも4種類ほどある。さて、どうしようか。どのランチも魅力的だ。昨日の鶏飯との食べ比べもいいなあ等と10秒ほど迷ってAランチに決めた。焼き魚に煮物が付き、サラダのみビュッフェ式で食べ放題だ。キャベツの千切りと海藻をたっぷり食べてから肉厚の焼き魚を平らげた。美味しかったが、前日の鶏飯と飲み会の料理の印象が強過ぎた。ぼくにとっての奄美の食事の平均点が異常に上がり過ぎていたため、コメントするのがむずかしい。うまいものは美味い。普通は普通と感じたことを正直に書いていきたい。

 さあ、やるか。9月30日に行われる地下室の会のイベントに関して、スタッフや出演者に連絡しなければならない事が山のようにあった。手帳とノートを取り出し、メモってあったことを携帯メールに打ち込んでいく。30分ほど集中していただろうか。一応の形ができたころ、携帯が鳴った。藤田さんからだ。元気そうな声が響く。

『おはよう、今どこ?』
『隣のレストランにいるよ』
『飯食った?』
『もう、食べた』
『そっか、どうしようかな』
『なかなかいいよ、来る?』
『分かった、行くね~』

 といった会話があり、10分後に藤田さんが降りてきた。ぼくは真剣に事務的な作業を続けつつ、昨晩、いや、今朝まで飲み会が続いたことを聞いた。藤田さんの食事が終わるころには、メールの送信が終わった。よし、これでひと段落だ。天気はいい。お互い、昼過ぎまで思い思いの時間を過ごした。藤田さんもゆっくり寝たのだろう。二日酔いの気配もない。あとは、夜のライブでいい演奏をするだけだ。お互いに自分の部屋に戻り、1時間ほど個人練習をした後に、ふたりで合わせようということになった。曲順を決め、1曲ずつ確認していく。この時間が大切だ。ライブの良し悪しの半分はここで決まる。だんだん気持ちも高まってきた。いよいよだ!  (つづく)


(C)2012 SHINICHI ICHIKAWA
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