<二百十五の葉>
平成25年1月3日

 平成25年1月3日、横芝光町にあるぼくの実家に小さな奇跡が舞い降りた。いやいや、奇跡なんて呼んではいけない。大袈裟すぎる。世界中のどこにでもある他愛のない当たり前の一日であり、何気ない日常の話だ。それでも、両親とぼくたち3兄弟にとっては、ちょっとだけ特別で、天からの贈り物のような一日となった。

 正月三日目、ぼくの実家では、いくつかの偶然が重なり、思いがけない状況が生まれた。この日の半日を両親とぼく、弟、妹、5人だけで過ごすことになったのだ。えっ?それがどうしたの?という声が聞こえてきそうだ。確かに家族が一堂に会しただけの話だ。めずらしい話ではない。だが、ぼくたち兄弟それぞれが家庭を持った今、30数年前は当たり前だった5人だけの日常は“昔の話”でしかないから、レアな出来事であるのは間違いない。父はジジではなく父として、母はババではなく母として、弟は父としてではなく息子として、弟として、兄として、妹は母ではなく娘として末っ子としての数時間を過ごした。ぼくの場合はというと、50歳を過ぎても堂々と息子として過ごせさせてもらっている。それは、実家にいるときも東京で生活している時も変わらない。感謝しなければならない。いや、この点では弟も妹も同じだろう。親の前では子であり、子の前では親であるのは永遠に変わらない。決して望んだ訳ではないが、せっかくの偶然だ。昔に戻って楽しんじゃえということになった。誰かが声に出した訳ではない。当然のように、何気なく、自然に、5人の心の中にある時計の針は巻き戻された。

 ここ数年、ぼくと両親は、正月の2日か3日に、父の実家依知川家と母の実家である椎名家のお墓参りに行くようになった。正月にお墓参りをするというのは何とも気持ちがいい。今年も3人で出かけようかということになっていた。弟一家は、毎年、元日の午後から数日を弟の奥さんの実家がある茨城で過ごしている。今年も4人で出かけていたが、弟一家には大事な家族がもう一犬(ひとり)いた。ビルだ。ビルの世話に弟が一泊だけ戻ることになった。直線距離ではそんなに遠くはないが、千葉と茨城を南北に繋ぐ高速道路がないため、一般道路で約2時間かかる。弟は、2日の夜に一時帰宅した。

 妹は、今年成人式を迎えた大学生の長男とふたりで、3日に来ることになっていた。だが、長男に用事ができ、彼だけ4日に到着するという。3日の朝、妹は、ひとりで電車に乗った。妹も住んでいる場所から実家までは電車で約2時間、時間も費用もさほどかからない。ついでに言うと、ぼくも車で約2時間の距離に住んでいる。帰省するときの2時間は短い。好きな音楽を聴きながら運転していればあっという間だ。

 3日の朝、弟がやって来た。妹は1日に6本しかない総武本線の特急列車に乗っている。10時50分横芝駅着。横芝駅までは歩いて10分ほどだ。せっかくだから、弟とふたり、歩いて迎えに行こうということになった。荷物があるかもしれないと弟は自転車のハンドルを握った。おだやかで、抜けるような青空が広がっている。空が高い。 栗山川沿いの道をてくてくと歩く。原付バイクで通学するようになるまで高校時代のほとんどは、駅までの道をこうして歩いていた。旧光町から旧横芝町へとつながる橋が見えてきた。やけに近く感じられる。橋は最近新しいものに架け替えられた。古い橋も未だに取り壊されずにいる。新栗山橋を渡ると旧横芝町だ。市町村合併で山武郡横芝光町となったが、奈良時代から、横芝町は上総 (かずさ)の国、光町は下総(しもうさ)の国であり、栗山川は国境の川だった。

 横芝駅の佇まいは当時のままだ。ずいぶん古い建物だから、いつごろのものだろうと調べてみたら、なんと、駅舎は明治時代に造られたものだった。1897年(明治30年)6月1日の総武鉄道開通時のものがいまだに使われている。これには驚いた。曾祖父の時代から変わらないなんてロマンがあふれる。木造平屋建ての駅舎は100年後の1998年(平成10年)に屋根の葺き替えや壁面の塗装等が行われ改装されたが、 東アジアの伝統的屋根形式のひとつである入母屋造の屋根は、今でも変わらず美しい。ちなみに当時の総武鉄道は、本所駅(現在の錦糸町駅)-銚子駅間だったそうだ。現在の一日の平均乗車数は1400人程度だが、近隣の人たちにとってはなくてはならない存在だ。横芝駅のホームについて以下のような記述を見つけた。『駅舎に接して単式ホーム1面1線、北側に島式ホーム1面2線と、あわせて2面3線をもつ地上駅である。ホームはかさ上げされていない。線路は、ほぼ南西から北東に走り、駅舎は線路の南東側に設けられている。ふたつのホームは駅舎の飯倉方にある屋根なしの跨線橋で結ばれており、島式ホームの中ほどに待合所が設けられている。当駅は側線を1本持っており、これはホームの松尾方で1番線の線路から分岐している。単式ホームは駅舎の松尾方で切り欠かれており、ここにこの側線が入っている』高校時代、千葉に遊びに行くときなども電車を1本乗り過ごすと、待合所で1時間は待たないといけなかった。それも楽しかったのだから、田舎の駅には不思議な魅力があるということだ。

 特急しおさい3号が滑り込んできた。帽子をかぶった妹は、ゆっくりと歩道橋を渡った。そして、ぼくと弟を見つけると嬉しそうに微笑んだ。家までたかだか10数分の道中だったが、本当に懐かしく、ぼくのあとをちょこちょことくっ付いて歩いていた40年前の弟と妹の姿が懐かしく思い出された。

 「5人だけなんていつ以来かな」実際には、20数年前に、妹の結婚式前日に5人で過ごしたとき以来だった。めずらしいから写真でも撮ろうということになった。タイマーを使ってパチリ!パチリ!またパチリ!背後に写る桜の木も我が家も同じように年月を重ねてきたのが分かる。悪くはない。すべてが、自然の理(ことわり)だ。それから、5人で車に乗り込んだ。向かったのは依知川家のお墓だ。5人で車に乗るなんてことも久しぶりだった。昔、こんなことがあった、あんなことをしたなんて話をしているとすぐに着いた。そして、森の中にある先祖の墓に向かい、5人でゆっくりと手を合わせた。

 帰りは、八辺(やっぺ)から松山に向かい、元旦から開いている松山庭園美術館に寄った。立ち寄る人はまばらだったが、庭は澄んだ空気にあふれ、気持ちのいい時間を過ごすことができた。夜は5人で鍋をつついた。我が畠で作った白菜が中心だ。何か特別のことを話した訳ではないが、当たり前のように過ぎて行く時間は愉快で愛おしかった。食事が終わると、弟は茨城へと向かった。

 79歳の父と75歳の母は、まだまだ老け込むには早い。光の地で、いつまでも笑っていてほしい。数年後にも、きっとまたこんな機会が訪れるだろう。その日を楽しみに、ぼくたちはそれぞれの日々を暮らし、それぞれの目標に向かうのみだ。お金や名誉よりもずっとずっと大事なことを伝えてくれた両親の教えを胸に我が道をゆく。


(C)2013 SHINICHI ICHIKAWA
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