<二百十八の葉>
英雄の話(三)

 江戸期の房総は、江戸に近いという理由から力のある大名家は置かれず、幕領や譜代の中小大名・旗本の所領、または天領となり、細かく分割された。有力な大名が、外様の雄藩の押さえとして要地に配されたのとは大きな違いだ。江戸初期は、房総で最大の藩が佐倉藩(11万石)で、下総には、その他、関宿藩、小栗原藩、高岡藩、小見川藩、多古藩、生実藩の6藩、上総には、久里浜藩、大多喜藩、一宮藩、鶴牧藩、請西藩、飯野藩、佐貫藩の7藩、安房には、勝山藩、船形藩、館山藩の3藩が置かれた。馴染みの地名があるだろうか。ぼくの実家に近いのは、多古藩だ。多古高校野球部には、光中野球部のチームメイトが進み、2年後輩は、長年野球部の監督を務めた。明治になると実家近くの松尾に松尾藩ができたが、すぐに松尾県となり、木更津県に合併された。

 大豆、麹、塩がほどよく混ざってきた。亜麻色や白茶色が入り混じった優しい色合いは、絶妙のバランスで何とも心地良い。この生命の素とも言える麗しき物体を発酵させるための容器に移すと、一丁上がりだ。美味い味噌ができるだろう。母の大豆が煮あがるのには、もう少し時間がかかる。自然とお茶の時間になった。抹茶と色艶のいい羊羹を出していただいた。抹茶は飲みやすく、羊羹は、一口食べて、すぐに虎屋だと分かった。う~ん、やっぱり美味い。世の中には、虎屋のほかにも美味い羊羹はたくさんあるだろうに、それでも、ここぞというときに選ばれるのはやっぱり虎屋だ。虎屋は、室町時代の1520年頃に創業された老舗中の老舗で、約500年間、日本人の舌を満足させてきた。『世は変われど虎屋は変わらず』だ。いやはや恐れ入る。後陽成天皇の御世から天皇家御用達となるのだが、500年に渡って第一線にいられるのには理由がある。当然のことながら、いつ、どんな時代でも虎屋の羊羹を求める人がいるからだ。虎屋もそのための努力を惜しまなかった。

 現在の虎屋社長・黒川光博さんと裏千家前家元・千玄室さんの対談を読んだことがある。ふたりの口からは『温故知新』『不易流行』という言葉が出てきた。温故知新は、日本人ならば誰もが耳にしたことがある言葉で「古きをたずねて新しきを知る」という意味だ。不易流行は、松尾芭蕉の言葉として知っていたが、改めて意味を噛みしめてみた。『不易』とは、「時代がいくら変わっても不変なものがある。また、変えてはならないものがある」ということだ。『流行』とは、『時とともに移り変わっていくもの、また、変えていかなければならないもの』という意味。芭蕉は、「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、時代の流れを知らなければ溌剌とした句は作れない」と言った。何事にも当てはまる。音作りにも、野菜作りにも。音作りのためとはいえ、音楽だけを学んでいるのでは、本当の意味で先へは進めない。世の理(ことわり)を知ること、宇宙の理(ことわり)を知ること、そして、あらゆる分野の一流を知ることが大切だ。たとえ、その時には理解できなくとも、その人の生き方や考え方に、作法や流儀に、触れるだけで人生は変わる。ぼくの周りにも手本になる人がたくさんいる。決してむずかしいことではない。『もの』の本質を理解しようという前向きな姿勢さえあれば、それだけで、人生は断然おもしろくなる。

 母に頼まれて、赤坂の虎屋に行ったことがある。店内には『虎』と書かれた見事な金看板があった。近くにいた店長らしき人に、看板や羊羹のことをいろいろと質問をしたのだが、実に丁寧に答えてくれた。買い物後も出口まで送ってくれたのだが、その自然な振る舞いの中にも500年の伝統が息づいていた。

 羊羹をつまみながら、ご主人がつぶやく。

 「千葉は『ばくと』ばっかりなんだよな」
 「えっ?」
 「ばくと?」

 一瞬、何のことかと思ったが、すぐにピンときた。『博徒』のことだ。普段の生活の中で、博徒という言葉が使われるとは思わなかった。だが、言われてみると、確かに地元の有名人といえば、飯岡助五郎ぐらいのものだ。
 博徒と聞くと、『赤城の山も今宵限り』でお馴染みの国定忠治や、映画やドラマでも大人気の清水次郎長が浮かぶ。佐倉惣五郎も博徒かと思っていたら、彼は佐倉の名主で、藩主・堀田氏の悪政に苦しむ農民のために、4代将軍・徳川家綱に直訴して磔にされたという義民だった。福沢諭吉が『古来唯一の忠臣義士』と讃えたほどの人物だったらしい。佐倉の人にしてみれば、彼はまぎれもない英雄だろう。飯岡助五郎は、間接的にだが、大原幽学を自決に追い込んだやくざの親分として悪名が高い。にもかかわらず、彼に十手を持たせていた幕府側からすれば、彼の働きは立派なものだったというから、よく分からない。ただひとつ言えることは、飯岡という名を良くも悪くも世に知らしめた男だということだ。

 ちょっと前までは、飯岡助五郎のことは知っていても、性学(儒学を基礎にした実践道徳)を説いた農民指導者、大原幽学については知らなかったし、佐倉惣五郎を知っていても、江戸時代屈指の儒学者、海保漁村の存在は知らなかった。海保漁村は、横芝光町北清水出身で、晩年、佐倉藩の藩校「成徳書院」で儒学を講義した。とともに、幕府の医学館『躋寿館』の儒学教授として多くの学生を指導し、生涯を庶民教育と中国・日本の古典研究に捧げた。

 ぼくの祖父たちも若かりし頃は、集まって大原幽学の性学や海保漁村の儒学を勉強していたらしい。安岡正篤の人間学や森信三の全一学を学んでいたという話もある。気の合った仲間たちと晴耕雨読の生活をしていたのだろうか。なんだか、うらやましい。

 森信三が広めようとしていた言葉がある。孔子の論語の一編に似ている。ハッとさせられる部分も多い。紹介しよう。

『職業に上下もなければ貴賤もない。
世のため人のために役立つことなら、何をしようと自由である。
しかし、どうせやるなら覚悟を決めて十年やる。
すると二十からでも三十までには一仕事できるものである。
それから十年本気でやる。
すると四十までに頭をあげるものだが、
それでいい気にならずにまた十年頑張る。
すると、五十までには群を抜く。
しかし五十の声をきいた時には、大抵のものが息を抜くが、それがいけない。
「これからが仕上げだ」と、新しい気持ちでまた十年頑張る。
すると六十ともなれば、もう相当に実を結ぶだろう。
だが、月並みの人間はこの辺で楽隠居がしたくなるが、それから十年頑張る。
すると、七十の祝いは盛んにやってもらえるだろう。
しかし、それからまた、十年頑張る。
するとこのコースが一生で一番面白い。』

 英雄の話を書きながら、ぼくには英雄にはもう一義あるように思えてきた。与えられた場所で与えられたことを真っ直ぐにやり続ける男のことだ。どんなことであってもあきらめずに、めげずにやり遂げる、そんな男も英雄という名にふさわしいのではないだろうか。

 そういえば、女性の場合は、どう呼ぶのだろう。女性にだって英雄と呼ぶに値する人はたくさんいる。『ヒーロー』の反対語は『ヒロイン』だが、ヒロインを日本語訳すると『女傑』『女丈夫』となってしまう。『雄』の反対語が『雌』だからといって『英雌』では、尚ひどい。さて、どうする。とりあえず、この話は、置いておいて英雄の話は、もう少し続く。 (つづく)

(C)2013 SHINICHI ICHIKAWA
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