<二十三の葉>
猿踊り


 2006年6月30日、我が国の首相がエルビス・プレスリー生誕の地メンフィスで世にも奇妙な猿踊りを披露した。プレスリー愛用のサングラスをかけ、彼の歌を口ずさみ、ギターを弾くマネをしてはしゃいだのである。その映像は一瞬にして世界を駆け巡り識者たちを唖然とさせた。その鮮やかな踊りっぷりと悦にいったニヤケ面は各国で新聞の三面記事に大きく掲載されテレビニュースでも繰り返し流された。事件や事故以外でこれほどまでに日本国民の関心を集めた映像というのは僕の記憶では今年三度目、まさに快挙である。(一度目は荒川静香選手が冬季オリンピックで金メダルを取った瞬間、二度目はWBC優勝決定の場面、小泉首相の勇姿はサッカーワールドカップ予選敗退のあの悔しい場面をもわずかに凌いだ。)他の国々では政治欄ではなく三面記事での扱いだったということを彼は知っているのだろうか。任期末になってもなお厚顔無恥ぶりを貫き通しているのには恐れ入るが、恥じているのは我々国民だ。1億2千万人の代表である一国の総理のあの恥さらしぶりはいったい何なのだ!

 日本国総理大臣である小泉さんは任期満了を前に総括の時期に入った。「古い自民党はぶっ壊す。」と威勢よく始まった小泉政治は賛否両論を呼んだ。もちろん我々国民にとって利益になることも沢山してくれたのだろう。だが、結果はすぐには見えてこないものだから、優れた総理大臣だったかそうでなかったのかはもう少し後になってからでないと分からない。好きでも嫌いでもなかったが僕も多くの人たちと同様に期待もしたし喝采も罵倒もした。その首相が選んだ最後の外遊先はアメリカ合衆国だった。世界一の大国との特別な友好関係を更に磨き、盤石たる基礎を作り上げたぞと自負したかったのだろう。それはそれでいい。それはいいとしてなんだあの猿踊りは…。公人としての立場をまったく理解していない。猿踊りを最初に見た瞬間、僕は固まってしまった。嫌悪感でいっぱいになった。「なんて恥ずかしいことをしてくれたんだ…。」彼は日本人の成熟度の低さを露呈してしまった。グローバルな物の見方ができない人種だとアピールしてしまった。残念ながら国を代表するということはそういうことなのだ。一瞬たりとも気を抜いてはいけない立場なのだ。猿踊りが始まった途端、一緒にいたホスト役のブッシュ大統領夫妻でさえどう反応したらよいのか分からず、作り笑いを浮かべ困惑していた。よりによってアメリカは任期を終えようとしている日本国首相に対して、なんでここまでのサービスをする必要があったのだろう。もしかしたらブッシュ大統領は冗談のつもりで誘ったのかもしれない。それを真に受けて「まじ!?」と舞い上がってしまったとしたら…。ここ何年かの首相の言動を見ていると納得できなくもない。逆にもしブッシュ大統領が本気で誘っていたとしたら、日本はそれくらい甘く見られているとしか言いようがない。「ちょっと気持ちよくさせて持ち上げておけばいい、ちょろいもんだ。」なんて思われているとしたら悔しい。でも確かに日本はアメリカにいいように扱われていると感じることが多々ある。

 ブッシュ大統領は国民の税金を注ぎ込んだ大統領特別機でメンフィスまで首相に同行した。アメリカ国民にしてもたまったものじゃない。日本国首相は辞退すべきだった。そして「ありがとうございます。でも私はプレスリーの街よりも今はジャズ発祥の地に行ってみたいのです。」とでも言って、昨年襲った水害の傷跡と戦うニューオリンズの人たちの元を訪れてくれていたとしたら…。災害の恐ろしさや準備の大切さ、そして復興の様子、立ち直った人々の笑顔を伝えて欲しかった。きっとそれは我々日本国民にとっても誇りとなったに違いない。一国民でも思いつくことをなぜ政府が思いつかなかったのか…。世界の隅々にまで目が行き届いていない証拠だ。世界の大国を自認するのならもっと実を持たなくてはならない。個人的に行きたい場所があるなら休暇中にでも自費で行けばいい。衆議院議員にだって休暇はある。(しかし議員を辞めた後に行くのが常識だろう。政治家になるというのはそういうことだ。)とにかくこんなことが話題になるなんて次元が低すぎる。

 政治家だから偉い、なんてことは絶対にない。国民のために身を削って何かをし、事を成してこそ偉いと言える。だが政治家ならそうするのは当たり前のことだ。彼らには今再び「政治家は民の下僕である」という言葉をじっくりと心に刻んでもらいたい。もし今後、政治家と話す機会があったとしたら間違っても「先生!」などと呼ぶのはよそう。年上ならば一般の目上の人に対するのと同様「○○さん、」と苗字で呼ぶのが自然だ。もし年下であっても一応敬意を表して「○○さん、」と呼ぼう。ただし、間違って衆議院議員になってしまったようなお調子者には「○○くん、」で十分だ。とにかく「一言も言わなくてもいいから勉強しなさい!」「遊びではないんだよ。」と優しく諭してあげよう。

 維新では多くの人が国のため、大義のために命を賭けた。この国の民主主義の始まりだった。幕末の英才たちは世界でも稀な無血革命を成し遂げた。第二次大戦後には、戦勝国に対し「我々は戦争には負けたが奴隷になった訳ではない。」と自らを顧みず毅然として言い放った人たちがいた。皆、本気で国の行く末を考えまた国民も彼らにすべてを委ねた。

 彼らには後輩の猿踊りがどう映ったのか。最近は名ばかりのSAMURAIが増えている。


(C)2006 SHINICHI ICHIKAWA
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