<二百三十一の葉>
らしさ

 小野田寛郎元少尉が亡くなられた。小野田さんは、終戦後も戦争が続いていると信じ(本当に信じていたのかどうかは分からない。信じなければならなかった、あるいは、信じようとしていただけか…)フィリピン・ルバング島で30年もの間任務を続けた陸軍軍人だ。小野田さんがルバング島に渡ったのは、戦況が不利となっていた昭和19年12月のことだった。彼は、諜報部員等を養成する陸軍中野学校二俣分校で秘密戦の訓練を受けていた。陸軍中野学校はエリートたちしか入れない難関だったと聞く。小野田さんも優秀だったに違いない。彼がジャングルから出てきた時の映像を見たことがある人ならば誰もがうなずくだろう。その姿は威厳に満ち神々しくさえあった。昭和49年(1974年)、13歳だったぼくにもブラウン管を通してその気迫が伝わってきた。敬礼とはこうするものなんだと思った。その毅然とした姿に感動と畏怖の入り混じったような感情を抱いたことを覚えている。

 まさに不撓不屈、現代人のぼくたちには到底真似できないだろう。なんせ29年だ。29年間も密林で過ごし、任務を遂行し続けたその精神力の源はなんだったのだろう。密命を帯びての上陸だった。「日本軍が負け、ルバング島が占領されても生き永らえて後方撹乱し、日本が再上陸した時に残置謀者としてこれを誘導する」というものだ。日本が負けたということは空気で、気配で分かったはずだ。それでも、彼には“負けた後の”任務があった。だからこそ、その後もジャングルに籠りいつ来るやもしれぬ日本軍の再上陸を待ち続けたのだ。終戦後、しばらくして任務解除の命令が出されたが、その命令は彼のところに届くことはなかった。

 当初、小野田さんは二人の部下と行動を共にしていた。終戦から9年経った昭和29年(1954年)、フィリピン軍との銃撃戦で島田庄一伍長が戦死(戦死に違いない)した。その後も小野田さんと小塚金七一等兵は生きているとされ、昭和34年(1959年) に日本政府が捜索隊を送ったが、半年ほどの捜索にも関わらずふたりが姿を現すことはなかった。フィリピン、日本両国政府は、『ふたりは既に死亡した』と発表した。それから13年後の昭和47年(1972年) に驚くべきニュースが届く。フィリピン警察との銃撃戦で小塚一等兵が倒れ、小野田さんがひとりでジャングルに姿を消したというのだ。またもや大規模な捜索隊が派遣された。その中には小野田さんの父や兄もいた。彼は父や兄の声を聞き、その姿を確認しても出てこなかった。出てこられなかった。「日本を占領しているアメリカ軍が自分を排除するために親兄弟まで強制して連れて来ているとしか考えられなかった。その証拠に、武装したフィリピン兵が必ず傍にいるではないか」後に、彼はこう語った。結局、この時も彼を発見することはできなかった。昭和49年(1974年)、民間人の鈴木紀夫さんが小野田さんを発見、その会話の中から元上官の任務解除の命令を待っていることが分かった。すぐに谷口義美元少佐がルバング島に飛んだ。49年3月、谷口少佐による命令下達が行われ、小野田さんは29年振りに祖国の土を踏んだ。羽田空港では両親が待っていてくれた。88歳になる彼の母は、第一声でこう言った。「寛郎、よう生きて帰ってくれた。長い間ごくろうでございました」母を見つめる小野田さんの顔は輝いていた。まぶしい、まぶしい笑顔だった。

 その時、小野田さんは52歳。今のぼくと同じ歳だ。ぼくの22歳から今日までの約30年を考えると震えてしまう。この30年間にはいろいろなことがあった。ぼくだけではない。誰もが30年の重みを知っている。この気が遠くなるほどの年月を、彼は毒虫が這いまわるジャングルで暮らしたのだ。悪辣な環境で過ごしたにも拘らず彼は91歳まで生きた。それもまたすごい。 昭和47当時の記者、産経新聞元常務山下幸 秀さんの言葉を借りる。『 毅然(きぜん)とした立ち振る舞いは何なのか。謎が解けたのは、28年後。再会した小野田さんは「大切なことは“らしさ”です。“らしさ”とは自分の役割が何であるかを把握し、責任を持って遂行すること」と話した。孤独な戦いを続けながら「日本人の誇り」に通じる“らしさ”を磨き、表現したものだった。』

 小野田さんの言葉にハッとした。“らしさ”だ。人間らしさ、日本人らしさ、“らしさ”は曖昧な言葉だがどんなことにも通じている。“らしさ”の中には悪いイメージもあるのは分かっている。それでも、自分の役割、責任を全うするという意味において、らしくあるのは大事なことだと思う。20歳の若者なら20歳らしく、50歳のおとななら50歳らしく。指導者なら指導者らしく、学者なら学者らしく、先生なら先生らしく、生徒なら生徒らしく、社長なら社長らしく、職人なら職人らしく。こんな当たり前のことができている人が少なくなってしまったような気がしてならない。昨今では“自分らしさ”という形で見聞きするが、自分らしさなんて本当は誰も分からないのではないだろうか。他人からの評価ならば分かる。他人が客観的に観た“あなたらしさ”、“彼らしさ”、には真実味があるが、自分でこれが自分らしさですなんて言っているようでは話にならない。ぼくにも『こうしてみたい』、『こうなりたい』と願う気持ちはあるが、『自分らしく生きてみたい』なんて言葉は恥ずかしくて口にできない。

 音楽の演奏でも“らしさ”を出すのはむずかしい。たとえ簡単なフレーズであったとしても、その曲の雰囲気に合った音符で、メロディーで弾けるようになるにはそれ相当の経験が必要とされる。同じ4分音符でも8分音符でも曲によって大きな違いがある。民謡やブルースが簡単に弾けるだろうか。レゲエやラテンのリズムを簡単に出せるだろうか。並大抵の練習や経験では無理だ。“らしさ”をものにするには、それだけの覚悟と情熱が必要とされる。

 7年前の2007年に書いた四十三編目のエッセイのタイトルも、また『らしさ』だった。だが、今回のエッセイを『らしさ(二)』とすることはできなかった。ひとりの人間として、ひとりの日本人として、家族の一員として、52歳の男として、音楽家として、それらしくいられているか、そんなことを考えると気が引き締まるばかりだ。

 昭和49年4月、小野田さんは、実家に帰ると父母の前で正座し出征の時に母から手渡された短刀を差し出した。出征前、母は「敵の捕虜となるおそれがあるときには、この短刀で立派な最期を遂げ小野田家の名誉を辱めないでください」と言ってこの短刀を手渡した。29年もの間、どんな思いで短刀を持ち続けていたのだろうか。想像するだけでも胸が熱くなる。 究極の“らしさ”とは何か。“らしさ”の奥にあるもの、それは“本物”に他ならない。小野田さんは、自分は軍人らしくいただけだと言ったつもりだろうがそうではない。彼こそ、本物の軍人だった。 (了)

(C)2014 SHINICHI ICHIKAWA
-------------------
PAGE TOP
目次
ESSAY TOP
BBS
HOME