<二百三十七の葉>
61年会(下)

 1961年に生まれたぼくたちは、同じ年に小学生になり、同じ年に中学校を卒業し、同じ年に成人式を迎えた。当然、還暦を迎えるのも一緒だ。1961年に1,589,372人が生れ、1962年には1,618,616人が生れた。1961年4月~12月生まれと1962年1月~3月生まれを合わせると、およそ160万人だ。この数が多いのか少ないのかを考えるには、他の世代と比較してみなければ分からない。団塊の世代と比べてみよう。戦後すぐの昭和22年、23年、24年に生まれた人たちの世代を“団塊の世代”と呼ぶ。日本史上、最も生まれた数が多いとされる世代だ。この3年間は、毎年260万人以上の人が生れた。ぼくたちより12歳~14歳年上の先輩たちは、100万人も多い。260万人と160万人の差は歴然としている。彼らの両親は、多くが戦地から帰ってきた人や生死をくぐり抜けてきた人たちだ。死を間近に感じた人たちの思想がこの世代を育てた。“好きなことを思い切りやれ!”だからだろう、個性的でたくましい人が多い。団塊の世代は戦後の主役となった。ぼくたちの両親の世代は、絶望の少年少女期を過ごした人たちだ。ぼくの父は12歳で、母は8歳で終戦を迎えた。一番不安を感じ、ひもじい思いをした世代ではないだろうか。昭和16年から20年にかけては、日本にとって史上最も過酷な時期だった。戦争が終わり世の中の価値観が一変した。子供ながらに心の拠り所を見つけることさえ大変だったに違いない。ぼくたちの両親の世代は、“人並みでいい、安定した仕事に就いてほしい”と願ってぼくたちを育てた。自分たちが受けた辛い思いを子供たちにさせてなるものか、と歯を食いしばって働いた。だから、ぼくたちは、真の意味でひもじい思いなどしたことはない。ちなみに、合計特殊出生率(一人の女性が生涯に生む子供の数)が過去最低の1.26を記録した平成17年に生まれたのは1,062,530人。出生数は、残念ながら減少の一途をたどっている。

 70年代は、ロックの黄金期だ。歴史に残るロックバンドが時代を席巻していた。レッド・ツェッペリンやディープ・パープルがいた。クイーンやキッス、エアロスミスの全盛期だ。1971年に10歳を迎え、1981年に20歳になったぼくたちは、70年代を体全体で受け止めた。凄まじい音に、魅惑の声に、感性に、心が震え身悶えするほどのショックを受けた。みんなが当然のようにエレキギターやベースを手にし、そのままプロのミュージシャンを目指した人も少なくはなかった。だが、音楽の魅力にとりつかれた者たちもいざ進路の選択となると悩んだ。当然だ。音楽で食べて行くことがどんなに大変かは容易に想像がつく。61年会のメンバーもいばらの道と知りながらこの道を選んだ当時のティーンエージャーたちだ。

 大学を卒業するころになると半分がやめて行き、25歳になるとまだやり直しが効くのでは、と大半が音楽とは別の道へ進んだ。音楽の世界も実力がものを言うのは当然だが、仕事としてやっていけるかどうかは運や縁も大きく関わってくる。仕事だから大変なことがあるのは当たり前だ。それでも好きな道、楽しくないはずがない。毎日のようにリハーサル、ライブ、レコーディングと目の前にある音と向かい合った。毎年コンサートで日本全国を回り、地方の美味い物を食べ、先輩からツアーのいろはを学んだ。ミュージシャンとして売れていてもいなくても将来が不安なのはみんな同じだった。

 30歳を目前にすると、更に半分がミュージシャンをやめた。やめて行った人たちの気持ちもよく分かる。ぼくたちも同様に悩み苦しんだからだ。バンドをしながら、仕事をしながら、みんなギリギリのなかでやってきた。不安や恐怖とも戦ってきた。歯を食いしばって突き進んできた。だからこそ分かることもたくさんあったが、なんて大変な道を来てしまったのだろうと途方に暮れたこともあった。親との葛藤も、子との葛藤もあったはずだ。ぼくには子供はいないが、バンドをしながら、音楽で生活をしながら子供を育てるのは並大抵ではない。

 おもしろいもので、引き返すことができなくなる頃になると、音楽とは、楽器とは、ということがなんとなく分かってくる。40歳を過ぎて、これが自分の音かと気付く。ぼくの場合はそうだった。そうなのか、こうやって弾けばいいのか、こうすればこんな音が出るのか。楽器に触れてから30年経った頃に気付くことがたくさんあった。この30年の経験こそがぼくの今を助けてくれている。このような“節目”を同じ時に過ごしてきたからこそ、言葉がなくても分かり合える何かがある。何も気にせずにため口を利ける61年会の集まりでは、口にしなくとも“自分だけではない。ここにいるみんなもあの時期をもがきながら歩いてきたんだ”という思いが、お互いを労る気持ちとなり、やさしさに包まれたような感じがした。

 ぼくたちは、今年53歳を迎える。音楽の世界で生き抜いてきたという自負もある。あと7年で60歳だ。一般社会では定年を迎える人も多い。だが、音楽の世界では50代はまだまだ“中堅”だ。一体どんな世界なんだ?と笑いたくもなるが、それこそがぼくたちが望んだ世界。30年後には83歳になることも分かっているが、ぼくたちは、誰もが音楽の道を貫くと覚悟を決めている。音楽家としてこれからが勝負だ。これから先、61年会でどんなことができるのか、試行錯誤が始まるのは目に見えている。だが、何にもないところから何かを作り出すのがぼくたちの仕事ではないか。音楽を通して、世のため人のために少しでも尽くしていきたいと思う。 (了)

(C)2014 SHINICHI ICHIKAWA
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