<二百四十六の葉>
2015年 元旦

 西暦2015年、平成27年が始まった。まっさらな年だ。足を踏み入れたばかりの新しい年には、希望、夢、願い、そして、失敗、あきらめ、悔しさ、すべてがある。2014年が順調だった人は“更に前へ”、今ひとつだった人は“好転への道へ”。少しでもいい方向に向かいたいと思うのは人の常だ。しかし、この“いい方向”というものが曲者で、自分の希望通りに進む道がいい方向とは限らない。進んだ道が“いい方向”だったのか、別の道をゆくべきだったのか、は時が経ってみないと分からない。いや、実際には、時が経っても分かるはずはない。人生は一度きりだからだ。

『あの時、右ではなく左の道を選んでいれば・・・』
『あの時、あの人に会わなければ・・・』
こう思うことがあるかもしれない

『あの時、右の道に進んでよかった』
『あの時、あの人に会えてよかった』
こう思うことがあるかもしれない

 多くの偉人や人生の達人は『人生に無駄なことはない』と説く。まったく関係ないと思っていた経験や体験が後に活きたり、思いがけない方向に導いてくれたりすることがあると。ぼくたちは、どんな道を選ぼうと、どんな方向に進もうと、ひたすらに歩むしかない。たとえ、不本意であっても、置かれた状況の中でベストを尽くすしか道はない。たかだか53年の人生だが、経験上『ベストを尽くした上での結果こそ、天が与えてくれた道』だと思えてならない。いやいや就いた職業だ、とだらだら日々を過ごしているようでは後悔しか生まれない。これも何かの縁だ、と必死に働く人には希望が生まれるだろう。力を尽くす、知を尽くす、そんな日々を重ねて行きたい。

  20代、中国の歴史に関する本を読み漁ったせいか、古代の中国の智者に憧れた。文字にも興味を持つようになり、書もなんとなく好きになった。それでも、まさか自分が書をやるようになるとは夢にも思っていなかった。ただ、今思うと不思議だが、中国語の通訳をしている友だちが仕事で中国に出かける度に“落款”を彫ってきてほしいと頼んだ。落款とは書の作品に捺されている印のことだ。おかげで20数年前に中国で彫ってもらった『依知川』と『依知川伸一』の落款が、今になって役立っている。

  7年前、偶然通りかかったギャラリーに足を踏み入れた。入り口に飾ってあった文字に惹かれたからだ。そのギャラリーで知った“書”は、ぼくたちが小学校で習う“習字”ではなかった。ぼくは、即日、入門することにした。まずは、筆の使い方の勉強だ。グラフィックデザインとしての文字は“形”が大事だから、筆を使えようが使えまいが関係はない。鉛筆やペンで、あるいは、パソコンで形を整えればいい。しかし、筆で書く文字は違う。筆を使えるか、筆を操れるか、が重要なのだ。筆は、料理人における包丁であり、ミュージシャンにとっての楽器だ。筆を使いこなす訓練をしながら楷書、行書、草書、篆書等を中国の古典で勉強していく。その上で、文字の表現がいかに自由であるかを学んだ。ぼくたちは、字に対する固定観念や常識に、きつく縛られている。数十年間にわたって繰り返してきた字を読み書きするという行為が脳と体に“字の形”を植え付けてしまっていて、偏の長さや点の位置を変えたりずらしたりすることを許さない。その鎖の強度は、想像をはるかに超えていた。こういった観念や先入観をなくすことがどれほどむずかしいか。ぼくたちは、字以外でも多くの固定観念や先入観に縛られて生活している。このことを知るだけでも価値があり、ものごとを俯瞰できる懐の深い人への道に繋がっていくのではないだろうか。

 2015年の初ステージは1月1日、新高輪プリンスホテルで行われる師匠の大書文字のパフォーマンスだ。先生が文字を書く傍らでベースを演奏する。少しは筆を知るものとして、先生の作品に色を添えたいと思う。新たな365日の第一歩だ。気を引き締めて行く。

(C)2015 SHINICHI ICHIKAWA
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