<二十五の葉>
25歳

 25歳を、僕は京都会館のステージの上で迎えた。1986年4月20日、今から20年前の話だ。大人になってからの20年なんて本当にアッという間だったが、どうにかこうにか音楽の世界でやり続けてこれたのだなと思うと感慨深いものもある。この場合の“大人”とは物理的な意味での大人で、生まれてから20年生きた人ということ。現代の日本では20歳で成人式を迎えることになっているが20歳になっても本当の意味での大人になっている日本人は少ない。10人にひとりぐらいではないだろうか。この傾向はどんどん顕著になっている。僕の場合もそのころは大人になったなどという意識はまったくなかった。はたから見てもけっして大人ではなかったはずだ。30歳を超えてやっと少しは大人になれたのかなというのが実感だ。それは、大人として持っていなければならない部分を少しは持てたということで、大人になっても持たなくてもいい部分、持ってはいけない部分もあることは知っておきたい。音楽を仕事に選んだからということではない。企業に就職してスーツを着るようになった人でも同じだろう。現代の日本人ならば精神的に自立するのに、また親離れ(子離れも含む)するのに20歳から最低10年ぐらいは必要なのではないだろうか。世界には10歳で成人を迎えなければならない人たちの方がずっと多い。

 当時は2006年の自分なんて想像もつかなかった。というより想像したくなかった。想像してはいけなかった。今、20歳の人ならよく分かるだろう。(まだ学生の人もいるだろうが)これから社会に旅立とうとしている人にとって未来の可能性は限り無い。自分に対して期待してしまうのは当然だし、根拠のない自信、確信を持てるのも若さの特権だ。でも必ず、嫌でも現実とは向き合わなければならない時が来る。どんなに厳しい現実であっても逃げることはできない。そんな時、苦しさの中で決断の手助けをしてくれるのが人生の先輩や先人の言葉、そして歴史だ。今、まさに勝負の真っ只中にいる人には北方謙三の『揚家将(上・下)』(PHP文庫)を読んで欲しい。読後しばらくは動けない。凄まじいほどの男の生き方を教えてくれる。この機会に“負けること” 、そして“負け方の意味”も知っておくといい。人は勝ち続けることはできない。

 2006年7月30日現在、僕は45歳だ。20年前と同様に次の20年後、65歳の自分を想像することはできない。元気でベースを弾いているだろうか。10年後の自分さえ想像するのは難しい。1日1日の積み重ねが明日の自分を作るのだから、将来の姿は毎日の過ごし方によって違う形になってくる。ここでふと浮かんだ逆転の発想を紹介しよう。(どこで読んだかは思い出せない)まず、10年後の自分を想像する。その自分は今、考えうる最大の成功を収めている。そしてそのイメージに自分を近付けるように毎日を過ごす、というものだった。この場合は10年後の理想、目標を高くイメージしてそこに辿り着けるようにがんばるというものだ。この考えは時によってはかなりの効力を発揮するらしい。考える前に脳が指令するようになるという。

 1986年は3月15日からツアーが始まった。近藤真彦(マッチ)のコンサートツアーだ。(触れるまでもないだろうがマッチは歌手としてだけではなくレーサーとしても活躍した。現在もレーシングチームの監督としてレースに情熱を注いでいるが、昨年、何年振りかに新曲をリリースしツアーも行った。)僕は1985年から彼のサポートバンド『ヤマト』の一員として活動していた。50本にも及ぶツアーはすべてが初めての体験だった。演奏に関してはかなり苦労した。まだまだ力量が伴っていなかったのは当然として、ホールによって自分の耳に聞こえてくる音がまったく違うのだ。楽器に対するほんのちょっとの力加減で会場に響き渡る音が変わってしまう。この音に対する戸惑いは何年も続いた。その場所に最適な音を一定時間内に作ることやトーンを指のタッチでコントロールすること等、空間に対応する能力は一朝一夕にして得られるものではない。僕らはそれらを体で覚えていった。20年前はこういった“場”がたくさんあった。ベテラン歌手からデビューしたてのアイドル歌手まで、テレビに出演する人は皆、自分のバンドを持っていた。毎年コンサート・ツアーがあった。毎日のように音楽番組があった。歌い手と同じようにベテランから若手までミュージシャンの活躍する場がたくさんあったのだ。この点では僕らの20代は本当に幸せだった。1986年当時、月曜日には『レッツゴー・ヤング』、『ヤングスタジオ101』の収録があった。『歌のトップテン』が始まったのもこの年だ。火曜日は『ヤンヤン歌うスタジオ』。水曜日は『夜のヒットスタジオ』、『レッツGOアイドル』。木曜日には『ザ・ベストテン』、『カックラキン大放送』、『クイズ・ドレミファドン!』。金曜日は『歌謡ドッキリ大放送』、『ロッテ歌のアルバム』、『歌謡びんびんハウス』、秋には今でも唯一残っている番組『ミュージック・ステーション』も始まった。土曜日が『ヤングタウン東京』。そして日曜日には『スーパー・ジョッキー』があった。(以上、生放送以外はすべて収録日。) 特番も多く組まれ一日にふたつ、みっつの番組を掛け持ちすることもしょっちゅうだった。ひとつの番組でサウンドチェックから音合わせ、照明合わせ、カメラリハーサル、ランスルー、そして本番と何度も演奏する。今のようにカラオケに合わせてあて振り(弾く振りをする)をするのではなくて必ず生での演奏だった。テレビの本場での緊張感は生半可ではない。何十万、何百万人もの人が見ているのだ。ミストーンのひとつもできない。(もし、ミスしてしまってもそれをなんとかごまかすテクニックも必要となる)その上で“乗り”や“グルーブ”そして個性さえも要求されるのだ。毎年行われたコンサート・ツアーも1日に2回ステージだった。こうして数え切れない“現場”での経験が今の僕を作り上げてくれた。僕らは演奏に演奏を重ねて鍛え上げられた世代なのだ。だから今のミュージシャンがかわいそうでならない。経験を積む場所がないのだ。中にはテレビのための“あて振り専門ミュージシャン”がいて、弾いているカッコさえできればいいという。だから“本当に音を出す時にはありえない”動きをしてしまうのだ。その姿は憐れなほどカッコ悪い。あれでは楽器に“触る”であって、“弾く”、“鳴らす”、“響かす”ということを体に覚えさせることはできない。時代の流れとはいえ本当に厳しい。これからミュージシャンを目指す人たちには、どうかめげずに一回でも多く音を出して体に音を浴びせてほしい。そして、空気を通して伝わる音をもっともっと受け止めてほしい。ミュージシャンはある意味職人だから経験こそがものをいう時がある。楽器とは一生をかけて付き合うものだ。向き合う時には焦ってはいけないし、甘く見ていけない。時には馬のように乗りこなさなければならない。演奏とは楽器自体をそれこそ自分の体や心の一部にしていく作業なのだ。

 25歳から数年はミュージシャンとしてやっていく上で重要な時期だった。あらゆることを経験させてもらったし本当に勉強になった。マッチには申し訳ないがマッチ本人に対してもバンドのメンバーに対しても『戦友』、あるいは『学友』といったような不思議な感覚がある。何時会っても懐かしいしガムシャラだったことを思い出す。みんなで成長していたのだ。

 1年戻って1985年、そのころ組んでいたバンドのデモテープをCBSソニーのSDオーディション宛に送った数日後、ソニーのディレクターです。という人から電話があった。「近藤真彦知ってますか?」と聞かれて「はい。」と答えながらしばらくの間、頭の中には近藤正臣の顔が浮かんでいた。


(C)2006 SHINICHI ICHIKAWA
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