<二百五十二の葉>


 明日の用意をして、さあ寝るか、という時間になったが、ふと見ると、深夜のテレビが、スイッチの入っていないテレビが、ザワザワと騒がしい。もちろん、テレビをつけなければ実際に騒がしくなるなんてことはない。それでも、今、テレビをつければワクワクすることが待っている、ということをぼくは知っている。スイッチをつけないのか?とテレビがザワザワと誘っているのだ。スペインで行われているテニスのマドリードオープンで、これから、錦織圭選手がフェレール選手と準決勝進出をかけた試合をする。ぼくたちは、20世紀後半から、世界の情報をリアルタイムで知ることができるようになった。早く寝ないと、と思いながらも手が勝手にスイッチを押してしまった。 

  錦織圭選手は、見事な戦いで勝利を飾った。なんと素晴らしき日本の若者、称えないではいられない。なんて興奮しているうちに、今度はアメリカで行われているゴルフのプレーヤーズ選手権が始まった。おいおい、やばいぞ!と思いながらも、頼もしいふたりの日本の若者を応援せずにいられるものか。今日は予選二日目、松山英樹選手は初日を1位タイで終えていた。石川遼選手も4打差で追っていた。番組は試合の後半戦を映し出していた。今日は石川選手がいい。ぼくたちの世代の感覚では、テニスにしろ、ゴルフにしろ、個人のスポーツで世界と対等に戦える時代がこんなにも早く来るなんて想像もできなかった。卓球にしても、バドミントンにしても、体格差でクラス分けをしないスポーツでの近頃の躍進ぶりは特筆ものだ。

  4月から10月までの7ヶ月間、ぼくの朝の日課は変わってはいない。起きると、すぐにスマホのスイッチを入れ、スポーツニュースのアプリを開き、イチロー選手の打撃結果のチェックをする。昨年まで、ヤンキースで苦しいシーズンを送っていたイチロー選手は、今年からマイアミ・マーリンズのユニホームに袖を通すことになった。ぼくは、早くヤンキースから出て他の球団に移ってほしいと願っていた。ヤンキース以外ならどこでもよかった。ヤンキースの球団としての在り方とイチロー選手のスタイルが合わないと感じていたからだ。そんなヤンキースでも、彼は最低限の結果を出していた。やはり、只者ではない。ぼくの中での移籍条件は、そんなものがあるはずはないのだが(笑)、ただひとつ、『レギュラー確約』だけだった。イチロー選手がリラックスして毎試合に出られたとしたら、まだまだ150本は楽に打てる。環境に馴染めば200本だって可能だ。

 2015年3月になっても、イチロー選手の移籍はなかなか決まらなかった。数球団の競合の末の移籍、しかも、レギュラーは確約されるだろうというぼくの予測に反して、レギュラーで迎えようというチームは1球団もなかった。やはり、ヤンキースでの使われ方が良くなかった。ヤンキースでのサブ的な起用法がメジャーリーグ全体に浸透していたとしか思えない。なんだか腹立たしい。そして、開幕が近くなるにつれて、第4の外野手としてという記事が目付くようになった。ふざけるな、と思ったが、41歳という年齢がネックだとする球団がほとんどだった。結局、彼は第4の外野手という立場を受け入れた。しかも、マーリンズの若きレギュラー外野手3人は、メジャー屈指の実力派ばかりだ。レフトのイエリッチ(23歳)は昨年ゴールドグラブを受賞している。センターのオズナ(24歳)とライトのスタントン(25歳)は、3番バッターと4番バッターで守備にも定評がある。なんということだ。これでは、イチロー選手の出場機会が著しく減ってしまうではないか。それでも、どうしようもない。彼同様、ぼく自身もこの結果を受け入れざるを得なかった。

 イチロー選手は、オープン戦では起用され素晴らしい結果を残したが、公式戦が始まると控えの日々が待っていた。毎試合、代打での1打席しか与えてもらえない。全打席バッターボックスに立ってこそのイチロー選手なのに。しかし、“その時”は来た。レフトのイエリッチ選手が椎間板ヘルニアの治療のためDL(Disabled List)に入ったのだ。日本語に訳すと故障者リストだ。イエリッチ選手には申し訳ないが、よし、とばかりに飛びあがってしまった。その後の活躍は言うまでもない。打つ!走る!守る!彼は躍動した。全身全霊、魂を込めたプレイは、ファンどころかチームメイトにさえ感動を与えるようになった。彼の加入で、ファンと選手の間に距離があると言われていたチームが生まれ変わろうとしている、と評価されるようにもなった。ほれぼれするとはこのことだ。彼の生き様は本当に美しい。打てても打てなかったとしても美しい。日本人が持っている美意識が彼の振る舞いや言葉のあらゆる部分に表れている。

 イチロー選手がスタメンに入ってからのマリーンズは、あっ、失礼!“マーリンズ”は、10勝4敗と息を吹き返した。一気に勝率5割だ!数年前、彼がマリナーズにいたころ、ぼくは、エッセイにこう書いた。『イチロー選手、マリナーズはマリーンズに似ています!マリーンズに来てください!』ここで、改めて言わせていただく。『マーリンズはもっと似ています!「ー」の位置がちょっと違うだけです。次は、ぜひ、マリーンズに来てください!』

 メジャーリーグの試合は日本では早朝から昼の間に行われる。運が良かったのか、悪かったのか、この日はデーゲームだった。ゴルフ中継が終わると、イチロー選手の試合が始まってしまった。なんてこった。ぼくの睡眠時間はどうなってしまうのか、などと考えながらも、半分、朦朧としながら、ぼくは試合を見ていた。そんな時、アナウンサーが発した言葉が耳に残った。「いやあ、ど真ん中でしたね!」

 どまんなか・・・『ど真ん中』の『ど』ってなんだ?そう考え始めたら『ど』が気になって仕方がない。で、調べてみた。『ど』は、接頭辞で名詞や形容詞の意味を強調する。とある。『ど根性』『ど迫力』『ど偉い』等がそうだ。品位に欠けるニュアンスが強いともある。『どけち』『どあほ』『ど近眼』『ど素人』『どスケベ』・・・なるほど。ぼくの場合、『ど』といったら、最初に思いつくのは『ドレミファソラシド』の『ド』だ。なんともしっくりくる。あとは、角度の『度』、曜日の『土』、怒りの『怒』ぐらいだ。最近の言葉でいうと『ちょ~』とか『めちゃくちゃ』に近い感じがするが、ひらがな一文字のインパクトは強い。西洋の言葉にはこの『ど』にあてはまる言葉はないそうだ。『ど』は、日本語の多様性を表す言葉でもあるのだ。

 一字だけで同じような効果を生むひらがなが他にあるのか、実験してみたい。「ずまんなか」う~ん、どこかの方言のようだ。「ごまんなか」「ざまんなか」どうしてか、濁音ばかりが思いつく。「ちまんなか」「ほまんなか」・・・止めよう。一文字を除いて、どんな文字を付けても合うはずがない。その一文字とは何か。『お』だ。この文字は使える。この『お』は『御』だ。『ご』とも『おん』とも読む。名詞に付くと「お菓子」「お帽子」「お子様」となる。「お茶」や「おしるこ」もそうだ。菊さんや富さんに付けたら「お菊さん」「お富さん」になる。動詞の場合は、「お越しいただく」「お呼びだ」となり、形容詞、形容動詞に付くと「おさびしいことですね」とか「おきれいな方」となる。う~ん、恐ろしき『お』。タイトルでもある『ど』が一発でかすんでしまった。

 今日もイチロー選手は活躍してくれた。間もなくイエリッチ選手が戻ってくる。イチロー選手は再び控えとなるのか。アメリカの新聞ではイチローをファーストで使え、という発言もあるようだ。それもいい。ファーストどころか、ピッチャーでもキャッチャーでもできるのがイチロー選手だ。早く、“イチロー!4打数4安打”とか“10試合連続猛打賞(ヒット3本以上)”とか、そんな見出しを見てみたい。

 そういえば、生まれ故郷では、「やるぞ」が「やっど」になり、「やったよ」が「やったど」になる。「そうだ!」は「そうだど!」だ。なんと、『ど』は、文章の最後にも来るということだ。「ぼくは、どイチローマニアだど」と三度(みたび)宣言して寝ることとする。おやすみなさい。 (了)

(C)2015 SHINICHI ICHIKAWA
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