<三十八の葉>
ノリオの日常
ノリオの休日(四)


 ノリオはうっすらと汗ばんでいた。朝の風は冷たかったが、熱い蕎麦をかきこんだおかげで体は熱を帯びている。おもむろにジャージを脱ぐとTシャツ1枚になった。缶コーヒーを手に取り、力を入れて2、3度振ってから、勢いよくリングを引くと『プシュウッー』という音と共に炒ったコーヒーの強い香りが漂った。間をおかずに一口すすると、ほどよく入り混じった酸味と苦味が喉を刺激する。コーヒーは最初の一口が格別美味い。(カフェインはアルコールやニコチンと同じように脳に常習性を植え付けるが、強い有害性はない。最近では薬効が見直されている。)「フウッ」ノリオはゆっくりと周りを見渡した。遊歩道では散歩する人、ジョギングをする人、鳥に狙いを定めてシャッターを押そうとしている人…それぞれが、それぞれの朝を、空気の清々しさを味わっている。空は高い。そしてこの国は平和だ。

 ノリオは二口目のコーヒーを飲み込むと持ってきた本を手に取った。「さていよいよだ」表紙を開き目次を目で追いながらパラパラとめくると物語の1ページ目が映し出された。準備完了だ。ノリオは逸る気持ちを抑えて読み始めた。冒頭の文章をなぞっただけで、あっという間に引き込まれそうな感じがして体がぞくぞくしてくる。「待った甲斐があるものだ」溢れ出る充実感。ノリオは物語の世界へと足を踏み入れようとしていた。

 その時だった。『ぶうう〜ん』何かがノリオの左耳をかすめた。その何ものかは後方から左前方にうなりをあげて飛行して行った。「蚊か」ちょっと気をそがれたが、目はすでに文字を追っていた。そこから3行ほど進んだところで『ぶぶううんん』今度は右斜め前方から弧を描くようにして右後方へといい音を響かせた。まるで存在を誇示するかのように…。「チェッ、またか」今度はちょっと不快に思って、しばらく様子を探っていたのだが何のことはない。どこかに行ってしまったようだ。三口目のコーヒーをゴクリとやってから気を取り直して、読み始めようとしたその瞬間、『ぶ〜〜〜んんん』今度は上空からの急降下だ。「俺に何の用だ!」「…」「何の用だ、はおかしいか」と、苦笑したが、何もかもがうまく行ってアルファー波に浸りまくっていたノリオもさすがにカチッときた。「こんなことでこの素晴らしい一日を台無しにしてたまるか」「蚊の野郎、今度来たらただじゃおかないぞ」舌打ちをすると、神経を研ぎ澄まして辺り一帯の気配を探った。(※この蚊は正しくは“野郎”ではない。血を吸うのはメスの蚊のみである。ノリオはこの事実を知らない。)ノリオの頭からはすでに本のことなどはまったく離れてしまっている。人間という生き物はおもしろい。ほんのちょっとのきっかけで気分は天国から地獄へ、地獄から天国へと行き来する。

 ノリオは何もなかったように装い、蚊を油断させようとした。「引きつけるんだ」そして、口笛を吹こうとしてすぐに止めた。「これじゃ古いギャグだ」人混みで口笛を吹いて、とぼけるつもりが自らの存在をアピールしてしまう、というこのギャグがノリオは好きだった。が、今は状況が違う。全神経を集中させて待った。「来い!一発で仕留めてやる」「……」「……」が、蚊は来ない。時間が長く感じられてならない。ノリオは焦(じ)れた。『先に動いた方が負けだぞ』さっきの達人の声が聞こえたような気がしたその時だった。右の腕に違和感を覚えたノリオはそこをチラッと見やった。「アッ!」声にならない声を出し、腕を大きく振った。蚊はふわりと舞い上がりすぐに姿を消した。「やられたか…」ノリオは右腕を凝視し、刺された時の感覚を待ったが、痒くはない。痒くならない。「大丈夫だ」危機一髪だった。「危なかった…次の立ち会いが勝負だ。『肉を切らせて骨を断つ』でいくしかないな。多少の血を吸われようとも必ず仕留めてやる」ノリオは腰を据えて勝負する覚悟を決めた。ノリオも必死だが蚊はもっと必死だ。(※マラリアなど蚊が媒介する病気が蔓延する地域では冗談ではすまないが)この勝負、どう考えても蚊にハンディがある。ノリオは負けても血を吸い採られちょっと痒い思いをするだけだが、蚊には命が懸かっている。まさに『殺るか殺られるか』の戦いなのだ。しかし、この蚊も命知らずだ。ノリオのように蚊の存在に対し必死になっている人間などほっとおいてもいいではないか…。蚊にも意地があるのか?いや、この場合、そうとしか思えない。

 姿勢を正し、缶コーヒーに手を伸ばそうとした瞬間、ノリオの目がそれを捉えた。「ああああああ、そうだったのか」ノリオは唸った。「これを使えということだったんだ」「我が師よ!」ノリオはベンチの隅に置かれていた枝をギュッとつかんだ。『殺してはいけない、これで追い払うがよい』そう言いたかったに違いない。達人はノリオが座るだろうこと、そしてこの辺りで蚊が待ち受けていること、死闘になること、を予測していたのだ。きれいに枝分かれした1本の枝は達人からの贈りものだったのだ。

 「あっ!」背中に戦慄が走った。「こ、この感覚は」「も、もしかしたら…」左腕に視線を走らせた。すると病院で採血する時に注射針に狙われることが多い肘の内側のくぼみの辺りが真っ赤に盛り上がっているではないか。「か、痒い…やられたな」この時すでにノリオの心から闘争心は消え失せていた。「俺はいったい何をしていたんだ」「自分のことしか考えなかった…そんな自分が恥ずかしい」

 ノリオは今朝起きてからのことを思い浮かべてみた。ひらめきがあった。幸せを感じた。新しい発見があった。そして反省があった。人生は思いがけないことの連続だ。手帳やスケジュール帳に書かれないような出来事、そして“何かをしている”という意識のない時間…。そんな何気ない日常の一瞬一瞬にこそ、真実が見え隠れしているのではないだろうか。時間は今も刻一刻と通り過ぎて行く。

 『ぶうううううん』誇らしげな羽音と共に、重そうな体が茂みの中へと消えて行くのをノリオはぼんやりと見つめていた。そして、ゆっくりと、だがしっかりとした足取りで歩き出した。



 P.S. ノリオの“秋の朝”の話はこれでおしまい。でも、きっといつか…ノリオの再登場をお楽しみに。(依知川)

(C)2006 SHINICHI ICHIKAWA
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