<四十三の葉>
らしさ

 冬らしくない日々が続いている。本来なら冬真っ只中で、外に出るのもためらわれるぐらいに寒いこの時期、どういう訳か一向に寒くならない。この“寒くない”とは、例年に比べて気温が(ちょっとかすごくかわからないがとにかく)高い、ということで、今年の冬も他の季節(春、夏、秋)に比べると間違いなく気温は低いし、暑い寒いでいうと確かに寒い。つまり、この冬は春や秋よりは当然“寒い”が、いつもの冬よりは“寒くない”ということなのだ。もっと簡単に言うと、今年の冬は「冬にしては寒さが足りない」「冬らしくない」ということだ。この“らしさ”、何気なく使っているがよくよく考えてみると驚くほど意味が深い。

 今年は例年より気温がかなり高いと感じるのだが、平均気温が1、2度変化しただけでも地球規模ではかなりの異変が起こると言われている。今年の暖冬はエルニーニョ現象が原因だと考えられている。エルニーニョとは太平洋赤道域の中央部からペルー沿岸にかけての広い海域で数年に一度、海面水温が平年に比べて高くなる状態が1年程度続く現象のことだ。これが現れると世界各地で異常気象が発生する。もとはペルー沖の海面水温が毎年クリスマスの時期に高くなる局地的な現象のことを指し、ペルーの漁民たちがクリスマスにちなんでエルニーニョ (スペイン語で「幼子イエス」)と呼んでいたのが名前の由来だそうだ。エルニーニョ現象が前回発生したのは2002年の春だったが前世紀からの発生状況を調査した結果、頻発化していることがわかっている。地球温暖化現象と無関係ではないらしい。

 この暖冬のせいで雪が降らない。東北や北信越のスキー場は閑散として経営者は悲鳴をあげていると聞いた。気の毒だとは思うが、自然が相手の商売だから文句を言うわけにもいかない。関連してスキー道具、ウエア等スノー・スポーツ用品は売れない。スキー場近くの旅館、食堂やショッピングセンターも被害をこうむるだろう。死活問題だ。逆に例年なら雪に埋もれて休まざるを得ないゴルフ場などは暖冬のおかげで、ここぞとばかりにがんばっている。損をする人がいれば得をする人もいるのだ。世の常か。街でもダウン・ジャケットやコートが売れない。売れ残ったマフラーや手袋はバーゲンの箱の中で山積みだ。(※ダウン・ジャケットなどは今やかなりいいものが半額で売られている。来年のことを考えて今から買っておくのも手だ。マフラーや手袋は思ったより安くならない)車のスタッドレスタイヤにしても出鼻をくじかれ、多くが倉庫の中で眠っているだろう。寒いからこその商売をしている人たちにとって、今年は完全に当てが外れてしまった。もしかしたら、おでん屋さんにだって影響が出ているかもしれない。もっといえば、花もそうだ。寒い冬を耐え抜いた桜ほど美しい色の花を咲かせると言われている。今年は、気合いの入った桜色は望めそうにない。

 日本は四季折々の自然に恵まれているからこんな憂いは贅沢と言えば贅沢なのだが(※この美しい国に生まれたことを享受するとともに、感謝しないといけないなと心から思う)こうまで暖かいとなんとなく調子が狂ってしまう。寒いのは好きな方ではないが、寒い中歩いた後、暖かい部屋に入った時のホッとする気持ちとか、背中を包(くる)めて炬燵で温まる喜びとか、寒いなら寒いなりの幸せがあるものだ。冬はやはり冬らしくあってほしい。衣類にしても、食べ物にしても、道具にしても、我々の先祖は長い年月をかけて冬に対峙する方法を考え、楽しむ術(すべ)を編み出してきたのだ。その恩恵に預からない訳にはいかない。

 ここしばらく「冬らしくないな」と思いながら「“らしさ”と言えばよく使われるのは“自分らしさ”かな」などと何気なく考えていた。そしてすぐに「“自分らしさ”とは何か。“自分らしく生きる”とはどういうことか」ということを考え始めてしまった。分かっていそうでまったく分かっていなかった難しい問題だ。今も昔も10代後半から20代にかけての若者は「自分らしく生きたい」「自分らしさを求めたい」というようなことをよく言う。現代なら就職せずにアルバイトやフリーターとしての生活を選ぶ若者たちの口からこぼれる言葉である。また、「食べたい時に食べる」「眠りたい時に眠る」「仕事はしたい時にする」これらを自分らしく生きることだと思い込んでいる人がいる。本当にそれだけで自分らしく生きたことになるのだろうか。いや、違う。これらはただの本能的欲求に過ぎない。生きるということは他人とのかかわりの中で生活するということだ。自分以外の人間とのかかわりなしで生きている人はいないと言ってもいい。食事ひとつとっても言わずと知れたことだ。毎日口にする食べ物の中に他人の手を介していない物がはたしてあるだろうか。(※最近、カンボジアのジャングルで野生化した女性が見つかったが、この女性のような場合に限って他人とのかかわりあいのない生活をしていたと言える)自分らしく生きる前に、自分が社会の一員であること、他人の輪の中にいること、そこにはルールがあること、誇りと尊敬が必要なこと、などをはっきりと自覚しなければならない。

 “自分らしさ”とは言い換えれば“個性”あるいは“流儀”と言ってもいい。生まれ持った個性もあるにはある。だがそれらは“せっかち”だとか“おっとり”だとかいうように性格や行動の傾向だから、それを自分らしさとは言えない。音楽の世界で使われる“らしさ”なら分かる。僕だけではなく曲を作り、歌い、楽器を演奏し続けてきた人、音楽が好きで聴き続けている人、その他音楽に携わってきた人なら誰でも感覚で分かるはずだ。まず、楽器を手にしたばかりの人に“個性”を見つけるのはむずかしい。ある程度弾けるようになって個性的に演奏しているように見えても本当の“個性”はまだまだ生まれない。長い年月、楽器と真剣に向かい合い、いや、真剣に向かい合ったことなどないと思う人でも、長い間、大切に弾き続けた人なら同じことだ。弾き続け、叩き続け、(当然、歌い続けることも含める)その楽器を自分のものにした人にだけ初めて“個性”というものが生まれてくる。そして、そんな人たちの間では「今のフレーズ、あいつらしいなあ」とか「おまえらしく弾いてくれよ」とかいう会話が交わされるのだ。この“らしさ”はプロミュージシャンの場合、生活に直結する。「プロは上手い」とか「上手くなってプロになりたい」という話をよく聞くが、この“上手い”という表現は厄介だ。“上手い”は曖昧で観念的な概念であり、まして基準などはない。ある程度上手いのはプロとして当たり前のことだ。たとえばベーシストならば、いろいろな奏法(※2フィンガー奏法、ピック奏法、チョッパー奏法、サムピック奏法、弓を使った奏法など)を平均的に弾きこなす人よりも、ひとつの奏法で突出した音色やニュアンスを表現する人、つまり、その人だけの本当の“らしさ”を持った人の方が、様々な場合において必要とされることが多い。(※楽器を選ぶセンス、見分ける眼も大事だ。自分らしさを表現するのに不可欠な楽器がある)大きな仕事をするにはスペシャリストであることが要求されるのだ。

 1日練習したら1日分の成果が見えるのだったら話は簡単だ。しかし、そんな訳にはいかない。「弾いても弾いても上達しない」これは誰もが経験する苦い思いだろう。それでもめげずに弾き続けた人にだけ「あっ、できた!」突然のマジックが現れるのだ。このように上達していく感覚は勉強でもスポーツでも同じだ。楽器に向かうひたむきさと共に結果がでないことに耐える時間も必要なのだ。その過程を経て、楽器を自分のものにした人だけに授けられるのが“らしさ”なのではないだろうか。

 人生も同じだ。“生き方”を自分のものにする、なんて言い方はないが、結局は『人生をどう生きるか』を知ろうとすること、『自分らしく生きるとはどういうことか』を追求することが、『自分らしく生きる』ということに繋がるのではないだろうか。そしてそれは『自分を知ろうとする作業』に他ならない。僕も『自分らしく生きる』ということが少しでも形になるように努力(目標実現のために心身を労して努めること)していきたいと思う。そんなことをようやく噛みしめられる歳になってきたのかもしれない。45歳、まだまだ未熟だということだ。

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
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