<四十六の葉>
言霊

 「いっぺー、いっぺーいぐべえ」
 「いっぺー、いっぺーいっぺー」

みなさんには一読して意味がわかるだろうか。文字として読んでみるとわかりそうでわからない。ただ1行目の「いぐべえ」から、関東あるいは東北地方の方言らしいという察しはつくだろう。

 「一平!一平、行こう!」
 「一平!一平、一平!」

こう読んだ人が多いのではないだろうか。発音の強さにもよるが、これだと雑音の氾濫する場所にいて一平くんに大声で呼びかける言葉、あるいは雪山で遭難しかかっている一平さんを励ます言葉だろうと想像してしまう。正確に訳すとしたら(※この場合、はたして“訳す”でいいのだろうか)以下のようになる。

 友人:「一平、一杯飲みに行こうか」
 一平:「IPPEIにはたくさん人がいるんじゃないかな」

最初の行の「一平、一杯飲みに行こうか」という呼びかけはなんとなく分かるかもしれないが、問題はその後だ。「一平、一平、一平…」と呼んでいる訳ではない。飲みに誘われた一平さんが、いつもよく行く店らしき“いっぺー”という飲み屋にはたぶんたくさんの人がいるぞ、どうする?と返答しているのだ。つまり2行目の最初の「いっぺー」はIPPEIという店の名前で、ふたつ目は「たくさん」「いっぱい」の意味の「いっぺー」、三つ目は「いるだろう」という意味の「いっぺー」なのだ。「たくさん」の意味の「いっぺー」は語尾の「ぺー」をちょっと高くして音を伸ばす。「いるだろう」の「いっぺー」は「ぺー」を高く持ち上げたと同時にさっと下に引き戻す。あまり長くは伸ばさない。このニュアンスをこれ以上文字で説明するのは僕の筆力ではむずかしい。文字として書けば同じ言葉になってしまうが発音すればイントネーションやアクセント、ニュアンスによってまったく違う意味を持つことになるのだ。中国語を習う時、最初に「まあ まあ まあ まあ」と練習すると聞いたことがある。この四つの「まあ」は各々「お母さん」「麻」「馬」「罵る」という意味なのだが、それをイントネーションとアクセントの違いのみで聞き分けなければならない。これによく似ている。(※不謹慎にも最近人気の双子芸人の言葉を思い出してしまった。でもあんな感じなのだ)

 そもそも毎日の生活を標準語のみを使って暮らしている人なんていやしない。仕事では標準語を使うという人はいるとしても普段は遣い慣れた言葉を話しているはずだ。日常生活の中で標準語を耳にするのは、テレビやラジオなどの公共放送を聞いている時くらいだろう。テレビをつけるとアナウンサーたちが一生懸命に標準語を話している、いや、話そうとがんばっている。何編か前のエッセイで鹿児島の方言について書いたが、鹿児島だけではなく地元の人でなければ何を言っているのかよく分からない言葉や方言が全国津々浦々にあって、印象的、個性的なその土地特有の表現は数え切れないほどある。それに比べると千葉の方言は小振りかな、とも思ったがそんなことはない。「なんだそりゃ〜」と思えるようなものがたくさんある。それに自分が育った土地の言葉にはやはり愛着があるものだ。たまに地元で同級生と話をしていると何年も使っていなかった言葉がふと口をついて出てきて自分でもびっくりすることがある。あと、てっきり北総独特の言葉だと思っていたのに実は全国的に使われている言葉だったということもあるし、誰にでも通じる共通語だと思って使っていた言葉が独自のものだったということもある。大人になってから「ちょっと意味が違うね」と指摘されて驚いたこともあった。

 僕が小学校6年生の時だった。新しく担任になった先生が挨拶の途中で「だあきっとも」と言った。初めて耳にする言葉だった。前後の意味からして「だけれども」という意味なんだな、と後で理解はできたが、先生が隣の野栄町(現在は匝瑳市)で生まれ育ったと聞いてびっくりした。野栄町は僕の住んでいた家からわずか数キロしか離れていない。「こんなに近くで暮らしていても知らない言葉を使うんだ…」新鮮な驚きだった。中学生になると驚きは更に大きかった。他の小学校から来た新しい友人たちの使う言葉に初めて聞くものがたくさんあったのだ。まさに衝撃だった。特に町の南側、海に近いところに住む友だちの言葉には珍しいものが多かった。漁師言葉だろうか、えげつないものも多かったが、粋がってみたい年頃の新中学生には魅力的だった。覚えてすぐに真似た。二人称の“君”や“お前”のことを「ニシ」とか「ニシャア」とか言っては(まるで遊びだが)悪ぶってみたりした。

 毎日の生活の中で、ふと発する光町の言葉というか北総の方言というか、生まれてから東京に出てくるまでに使っていた言葉や聞いて印象に残っている言葉をいくつか紹介してみようと思う。

◆「おう、見ろよ。やっらー、うんならがしてっと」
「やっらー」は「やつら」のこと。「やっらい」になると「やつの家」になる。「〜らい」は誰それの家という意味で「俺の家」の場合は「おっらい」になる。「おっらいにこうえー」となると「俺の家においでよ」となる。「うんならがす」は全速力で走っている様子やがむしゃらに何かをやっている様子を表す言葉。馬力を出して全身全霊でがんばる様子が伝わる言葉だ。さっき偶然、勝浦出身の友だちに会った。おもしろいから「うんならがすって知ってる?」と聞いてみた。「知ってるよ」と当たり前のように答えていた。

◆「あにやってったあえ〜」「あんが?」「そったよ〜」「これが、しゃああんめえや〜」
「なにやってんだよ〜」「なにが?」(指をさして)「それだよ」「これか、しょうがないじゃないか」 いう意味だ。千葉のライブハウス「ANGA」はこの「なにが?」とか「それがどうした?」という意味の「あんが」から名付けられたそうだ。「あんだ」も同じニュアンス。最後の「これが」の「が」は鼻音で、「ガラス」と発音するときの「が」だ。助詞の「〜が」などの鼻濁音ではない。ちなみに「あんが」の「が」は後者の鼻濁音だ。

◆「ぷっくらすど」
「ぶっとばすぞ」とか「なぐるぞ」 の意。語尾の「ど」は子供たちが使うと特にかわいい。例:「あぶんど」(あぶないぞ)「いくど」(いくぞ)

◆「してぇ!」
「〜をしたい」「〜をやりたい」という意味ではない。熱い物を触ったときに「あちぃ!」と言うように、冷たい水などをかけられた瞬間に発す言葉。「つめたい!」とか「ひゃっこい!」とかいう意味。

◆「うだでえ」
ものすごく疲れた時に発する言葉。「こええ」「おおこええ」とも言うが「うだでえ」はレアではないかと思う。中学校の野球部在籍中に覚えた。

◆「しみじみしない」
辞書によると「しみじみ」は「深く心にしみるさま」「静かに落ち着いているさま」を表す副詞で「しみじみと語り合う」とか「しみじみとした風情」のように使われるが、この「しみじみしない」は「ちゃんとしてない」とか「きちんとしていない」のような意味で動詞として使われる。母親の小言などで「おまえは、まったくしみじみしないねえ」とか「しみじみしなさい!」とか。

 ここで紹介した言葉以外にもめずらしいものやおもしろいものはまだまだたくさんある。思い出せない言葉や知らない言葉だっていくつもあるだろう。書いていても楽しいからまたの機会に第2弾を考えてみたいと思う。

 日本人は万葉の昔から自分たちの国のことを「言霊の幸ふ国」(※言霊の霊妙な働きによって幸福をもたらす国)と言って言葉を崇めてきた。“言霊”(ことだま)は辞書によると『言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた』とある。言葉にしたらそれが現実になる、つまり“言葉は生きている”という思想だ。現代でも言葉は霊力を発していると考えられている。おめでたい言葉を発すれば吉事が起こり、不吉な言葉を発すれば凶事が起きるという訳だ。それ故に“唱えるべき言葉”や“忌むべき言葉”というものがある。方言の魅力はこれにも関係している。その土地のみで使われる言葉にはその土地を幸せにする力があるのではないだろうか。漁村には漁村の恵みを、山村には山村の恵みを、農村には農村の恵みを…。幾世代も受け継がれてきた言葉には言霊が宿っているとしか思えない。そっと交わされるその土地だけの挨拶や言葉、その一言(ひとこと)が放たれた瞬間に天の恵みが降り注ぐのだ。

 最近、携帯を手に入れた中学生の姪からメールが来た。「ぎざ、かわゆす→f(////*)」なんて書いてある。八百万(やおよろず)の神々もさぞびっくりしたことだろう。*

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
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