<四十七の葉>
いつのまにか

 こう暖かいとなんとなく気分が華やいでくる。たまたまここ数日一足先の春の陽気が続いたからかもしれないが、ちょっと街を歩くだけでも春の匂いがあちらこちらに漂いはじめているのを感じる。こんな季節の変わり目にはギターのハーフトーン(※ストラト等でふたつのピックアップからひろった音をミックスした音のこと)のように独特で微妙な味わいの風が日本列島を駆け抜ける。この時期“春”は出番を今か今かと待ち受けているのか、それとも「いつでも呼んでくれ」とばかりにゆったりと構えているのか。どちらであっても“これから”の季節だから「今ならどんなに期待してもらってもいい」と気分的には余裕綽々だろう。そんな春の落ち着きを知ってか知らずか、我々は旅行前夜のわくわく感やスポーツの試合に臨む前の高揚感に似たものを胸に秘めて季節の移ろいに身をゆだねている。

 それとは逆にこの時期の“冬”は立場上つらい。結果が厳然として横たわっているからだ。寒かったら寒かったで文句を言われ、寒くなかったらなかったでちくちく言われる。特に今年は不本意なシーズンを送ってしまったと悔やんでいるだろうから同情せずにはいられない。きっと、「今年ばかりは名残を惜しんでなんていられない」とぼやき、1日も早く舞台から立ち去りたいと願っているに違いない。そして「冬らしいことがまったくできなかった」「面目ない、来年こそは…」と唇を噛みしめて雪辱を期しているに違いないのだ。しかし、期待を“裏切る”ことになったからといって、そんなに悔やむ必要はない。よくあることだ。それぞれの季節がいつも期待に応えてくれるとは限らないから、当たり前のようにやってきてくれるだけでもありがたいと思えるし、微妙な“変化”は「飽きさせない」という効果を生むことがあるから、冬らしさを発揮できなくても落ち込むことはない。それに、よくよく考えると暖冬は冬だけの責任ではない。“我々人間が仕出かしたこと”が関係している。というか、我々が元凶なのだ。まったくもって自業自得なのだから、「なんというていたらくだ」と冬だけに責任を押し付けるつもりは毛頭ない。

 次にやって来る季節の様々な兆しは徐々に姿を現し、それとはなしに自己主張し始める。そして、僕らはというと春なら春らしい色、夏なら夏らしい色に惹かれ、季節に合った物を身につけたくなってくる。春になると、冬の間はいていた濃い色の厚手の靴下を靴下入れの奧にしまいこみ、明るい色の靴下を前面にひっぱり出したくなる。Tシャツやスニーカー、そしてベルトやバックにいたるまでなんとなく明るい色を纏(まと)いたくなって、店先に並ぶ明るいオレンジだとか若葉色だとか空色だとかの服や小物に目がいくようになる。自分の年齢は最低限頭に入れてコーディネイトしているつもりだが、この点だけはちょっと自信がない。ブルーのジーンズでも、季節によって好みが変わるような気がするのだがどうだろうか。

 “季節”や“季節の変わり目”をテレビや新聞のニュースではなく、自分自身の体や感覚で感じるようになるのは、厳密にはいつなのだろう。昨日が“冬”で、今日が “変わり目”、明日が“春”、なんてことはありえない。季節は常に「いつのまにか」やってくる。そしてこの「いつのまにか」は、なぜだかやさしい。季節は「なんとなく」「気付くと」「知らぬ間に」変わっていることが多い。だいたいが「春だ!」と思った時にはすでに春の真っ只中なのである。時計があるから(※僕の携帯電話にも装備されているが、今は電波時計という特に便利なものがある。自動的に時刻を補正して常に正しい時間を表示する優れものだ)昨日から今日に、去年から今年に変わる瞬間は分かるが、これは便宜上のもので、生きていくうえで本当に必要なのかと聞かれたら、素直に「はい」とは言えないような気がする。電車やバスに乗り遅れるのはいやだし、約束には遅れたくない。更に制限時間内で争うサッカーやバスケットボール、コンマ何秒を争う陸上競技や水泳競技は楽しみたいとわがままを言ってしまうが、本当は緩(ゆる)やかに流れる時間に身を任せて生きるのが自然の姿なのではないだろうか。

 “時”は…いつも「いつのまにか」過ぎている。朝が夜になるのも、夜が朝になるのも「いつのまにか」だ。雨が降り出し、やむのだって、花が咲いて散るのだって「いつのまにか」だ。英語や数学も、サッカーや卓球も、剣道や空手も、日本舞踊やフラメンコも、算盤(そろばん)や習字も、ピアノやギターも、どんなことだって上手くなるのは(下手になるのも)「いつのまにか」だ。もちろん、明確な意思を持ち努力を重ねることが大前提だが、時間の洗礼を受けないところに上達などはない。人を好きになったりいやになったりするのだって、きっかけはあるにせよ「いつのまにか」ではないだろうか。こう考えると時間の経過を必要とするものはすべて「いつのまにか」変化していくのだと思えてならない。大人になるのも、年老いるのも、そして、その延長上にある“死んでいく”も“生まれる”も「いつのまにか」の流れの中にあるような気がしてならないのだ。

 季節の変わり目に身をおいて「いつのまにか」こんなことを考えていた。今回は本当に何も考えずにパソコンに向かってみた。いつのまにか「いつのまにか」について書き始めていた。

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
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