<五十の葉>
楽器の話(三)

 高校生になってベースに本腰を入れる時がきた。チューニングをなんとなく覚えると次はいきなり演奏することを考えた。当時はみんな自己流だった。今でいう基礎的なレッスン等は一切せずにいきなり曲に入っていくのだ。左手の押さえ方もピッキングの仕方も見様見真似だ。「こんなカッコして弾くのか」から始まって「これでいいのかな…」と進んでいった。演奏したい曲を聞いてそれを真似る、音を拾う。いわゆるコピー(※音楽を聞いてその中の楽器のフレーズや音色を写し取ること)することが2歩目のステップだった。ベース音と思われる音を、フレーズを、聞き分けようと小さなラジカセのスピーカーに耳を押しつけて繰り返し聞き続けた。1小節どころか、たったひとつの音さえ“どの音”なのかわからないのだから1曲コピーするのは果てしのない作業に思われた。“大変”なんて言葉じゃ到底表せないような心境だった。その山はとてつもなく大きく、手探りで登山道を探し始めるしかなかったのだ。ベースの音を聞き分けるのは慣れないとむずかしい。はじめはどうしてもギターや鍵盤楽器の音に耳が行ってしまう。これらの音は聞き慣れた周波数帯だし、日常的に耳にする機会も多かったからだ。ベースの音はテレビやラジカセのスピーカーでは正確には再生できない周波数帯の音なのだ。当時のベーシストの卵たちは楽器を弾く前にまず、エレキベースという楽器の音を聞き分ける訓練が必要だった。

 それまではベースのような音域を直(じか)に聞くことはほとんどなかった。ベースを持ちカセットのプレイボタンを押す。じっと聞いていて目標の音が“来た”瞬間にラジカセのストップボタンを押す。これがベース音だろうと思われる音を探し、音程を探り、覚えた音を「U〜〜〜」と声に出しながらベースにおける“その音”に当てはめるのだ。自分の発している声と同じ音が指板の上には必ずある。指をネックに這わせながらここか、そこかと格闘したものだ。それは長い時間をかけた真剣勝負だった。よくもまあ、あれほど集中できたものだと今更ながら感心してしまう。前号でも触れたが当時はチューニングメーターというものがなかったから、まずは出来る限り正確なチューニングを心がけた。そうやって万全の状況を作ってから、発止(はっし)と向き合っていたはずなのだが、ときにはレコードから流れてくる音でも「きちっとチューニングされているのか」と首を傾げたくなるようなものもあった。意図的にピッチを上げたり下げたりして作られた作品もあったらしいが、チューニングにそれほど気を配らないバンドも少なくはなかった。そういう時代だったということだ。こういった場合は音が合う訳がない。「どうなっているんだろう」「どうやって弾いているんだ?」「なんでこうなるんだろう」…たくさんの疑問はその後、何年もかかって少しずつ解けていった。

 キュルキュルと巻き戻しボタンを押しては同じ箇所を何度も何度も聞き続けた。(※このキューバックに関してはカセットに勝るものはない。)当時ラジカセはティーンエイジャーには欠かせないアイテムだった。ラジオとカセットデッキが一緒になったもので高校生のほとんどが持っていた。FMとAMラジオが聞け、カセットテープで録音、再生ができた。今はほとんど使われなくなってしまったカセットテープだが、そのころ録音したものが押入れの中でたくさん眠っている。LPとCDでも持っている音源なのになぜか今まで捨てられなかったのだ。いい機会だからと聞いてみると、意外に音がいいのに驚かされる。ところどころに出てくるノイズの音とかカセットケースやラベルに書かれた当時の自分の字とかがなんとなく愛(いと)おしくて手放せないでいたのだ。何回かの引越しの危機を乗り越えてきた彼らの運命は…。そのうちに処分しないといけないなと思ってはいるのだが、よほど思い切らないと実行には移せそうにない。

 ある時、20回、30回とめげずに聞いてもどうしても聞きとれなかった音が友だちの家にあったステレオからハッキリと聞こえたこともあった。「えっ!こんな風に弾いてたの!?」ベースの音がハッキリと聞こえた驚きよりも、予想していなかったフレーズのカッコよさに面食らってしまったのを覚えている。当時は今と比べるとハードの面でいろいろと不都合があったのだが、それでも、身の回りにあるものだけを使って、その時々にできる範囲で創意工夫をした経験は大きな財産だ。少々のアクシデントには対応できる柔軟なハートは養えたと思うし、音に対する強靱な粘り腰を発揮するための下地のようなものも作られたかなと思う。

 イントロをコピーするだけで何日もかかった。イントロだけでも一緒に演奏できた瞬間はうれしかったし、それだけでもかなりの達成感を味わえたものだ。譜面になんて落とせないから曲の頭から覚えていくしかなかった。イントロの次は歌のパートだ。平歌(ひらうた)の部分を俗にAメロというが、1番と2番、あるいは3番では同じようなフレーズでも微妙に違うところがある。1番では4分音符だったところが2番では8分音符がふたつになったり、5度の音がひとつはいっていたり…。今だったら気にはしないようなところまで、実に細かいところまでコピーしていった。そうしているうちにあるとき、ふとベースの音がハッキリと聞こえてくるようになった。ベースの音だけがクッキリと分離して聞こえるようになったのだ。人間の耳はすごい!慣れさえすれば聞きたいと思う音を自在に聞き分けることができるようになるのだ。それからはおもしろいようにいろいろなことが分かってきた。その時から今までに何100曲コピーしただろう。確実に言えることは、その1曲1曲が血となり肉となって僕の音楽人生を支えてくれているということだ。コピーする時にフレーズや音を正確に取りたいと思うのは当たり前だが、大事なのはその曲の全体的な“ノリ”や個性、色、雰囲気のようなものをつかむことだと思う。
 
 ベースを始めた頃の話だから、ひとつのエピソードを書き始めるといろいろなことが思い出されてどんどん広がってしまう。書きたいことが増えて困ってしまうが、この辺りの話は端折(はしょ)る訳にはいかない。すでに3話を費やしたが、まだ、僕が手にした歴代ベースのうちの最初の1本しか紹介できていないではないか。楽器の話はしばらく終わりそうもない。

 自分の楽器に思いを馳せる機会に恵まれたことは、自分自身の(ベースを手にしてからの)30年を振り返る良いきっかけになったと感謝さえしたくなる。何はともあれ、当時のできごとひとつひとつと真剣に向き合うことが、あの頃の自分に対する礼儀だと思っている。(つづく)

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
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