<五十一の葉>
楽器の話(四)

 話は中学3年生の秋までさかのぼる。生活の中心だった野球部での活動は、8月の夏の大会1回戦負けという無残な結果であっけなく終わってしまっていた。野球部の話は「四の葉」でもふれたが、母校である光中学校はぼくが1年生、2年生の時には県大会で準優勝という成績を収め東総地区の強豪校として知られていたから、この結果は周りから見ると予想外であり、ぼくたちとしてもまったく想定外のできごとだった。体中の力が抜けてしまうほど悔しかったが、ぼくは他のふたりと共に2年生の時から試合に出してもらっていたから、敗れた悔しさだけでなく県大会準優勝の喜びもグラウンドの上で身をもって知ることができた。だが、同学年の野球部員の多くは中学生最後の年に予選を勝ち抜くことも、試合に選手として出場することもかなわなかった。悔しさはいかばかりだっただろうか。ぼくがキャプテンに命ぜられた年、最上級生である3年生は例年に比べかなり多く18人だった。多感な年頃だ。それぞれの自我が本格的に目覚め始める頃でもある。6人のレギュラーと12人の補欠部員の間に時々深刻な対立が生じることもあったが、ぼくにはどうすることもできなかった。いや、どうにかするなんて無理だっただろう。もちろん普段は良き友であり、良きチームメイトだったから余計につらかった。そのような状況が、練習試合では勝てても公式試合ではすべて1回戦負けという不名誉な結果を生んでしまったのか、あるいは、その年に限ってたまたま気の弱いメンバーが集まってしまったのか、簡単に結論を出すことはできないが“人をまとめる”“人がまとまる”ということは本当にむずかしい。これは、今でも事あるごとに実感することだが、世界を見渡してみても小さな感情のずれから修復不可能な対立に発展してしまうという不幸があふれかえっている。ふたり以上の人間がいる限り大きな社会でも小さな社会でも“まとめる”“まとまる”ことのむずかしさに差異はない。素晴しくも哀しくも人間は本当に複雑だ…。初めて“バンド”というものに触れた中学3年生の秋を書くために数行で通り過ぎるはずだった野球部の話にも関わらず、またもやこれだけの文字を費やしてしまった。もちろん部活動は勝ち負けだけではない。有形無形の余りあるほどの財産を与えてもらった。汗と涙と土埃にまみれた野球部での2年半はぼくにとってはそれほど印象的な時間だったのだ。

 さて、3年生の2学期になって初めて“自由な放課後”という時間を持つことになったぼくはどうしていたか…普通なら受験勉強にとりかからねばならない時期だが、どうにも身が入らない。自由な時間を持ったという開放感と受験なんて「どうにかなるさ」という根拠のない気楽な気分に支配されてのんびりとした日々を送っていた。幸いなことに(笑)なぜか依知川家には「勉強しなさい」と言う人はいなかった。となると、音楽に気持ちが向いてしまうのは当然のことだ。毎日のように、そのころ唯一の情報源だったロック雑誌「ミュージック・ライフ」を手に、ラジカセに向かっていた。

 9月の昼下がり、土曜日だったろうか。友だちと3人で行く当てもなく自転車で隣の旧横芝町の商店街を走っていると、ふと音楽が耳に入ってきた。「なんだ!?」それはビートルズの曲だった。ラジカセやステレオで聴く演奏とはあきらかに違う。臨場感があってやけに生々しいのだ。そして、その音はまぎれもなくかっこいい!自転車を停めると音の出所はすぐに分かった。音は江崎薬局の2階から洩れていた。いや、洩れるなんてものではない。かなり大きな音があふれ出ていた。「エレキの演奏だ!」ぼくたちはそのまま呆然として薬局の前に立ちつくし、ただ無心で演奏に聞き入っていた。そして、演奏が終わると自然に拍手をしていた。それを聞きつけたのか、突然ガラガラーッと窓が開いた。

リーゼントヘアーに剃り込みを入れた高校生と思われる人:「おめえら、ロック好きなのか?」(※ちょっと…怖いかも)

中学生3人:「…はい」(※かなり小さな返事)

リーゼント頭:「じゃあ、上がって来いよ」(※けっこう気さく?)

中学生3人:「えっ!」(※ただ顔を見合わせる)

リーゼント頭:「なあ、いいよなぁ」(※部屋の中の他のメンバーに同意を得ている様子)

中学生3人:「で、でもぅ…」(※何人いるんだろう?)

その時、リーゼント頭の両脇にふたつの頭が飛び出した。おもしろそうにこちらをのぞき込んでいる。

丸顔:「上がってくればいいじゃん」(※おっ、やさしそう。大丈夫かも)

細顔:「…」無言でうなずく。(※やっぱり怖いかも…)

リーゼント頭:「いいから上がってこいよ」(※ちょっと強い口調)

中学生3人:「はい!」(※元気のいい返事)

リーゼント頭:「そこのドア開ければ階段があっから、そっから来いよ」(※指さしてくれてる)

中学生3人:「はい!」(※更に元気のいい返事)

 こうして、ぼくたち3人は意を決し、ドキドキしながら2階へと階段を上がっていった。部屋のドアを開けて招き入れてくれたのはさっき無言でうなずいた細い顔をした人だった。痩せてすらっと背が高い。8畳ぐらいの部屋には4人の高校生がいた。そこは、まるで夢のような世界だった。ドラムセットがあった。ベースアンプがあった。ギターアンプは2台だ。エレキギターもベースもマイクもマイクスタンドも…これだけのものが同じ部屋にあるのを初めて見たのだから冷静でいられたはずがない。完全に舞い上がっていた。そんなぼくたちに彼らはたぶん、レパートリーのほとんどを披露してくれたのだと思う。ビートルズとキャロルの曲を中心に1時間ぐらい聞かせてくれた。「す、すごい…」目の前でギターやベースが鳴っている。ドラムってこんな風に叩くのか。レコードとおんなじ音だ!同じフレーズだ!ハモってる〜!それはもうカッコよかった。目の前の高校生たちが皆、天才のように思えた。バンドの名前は「Mother」だった。名の由来を聞く前にリーダーであるリーゼント頭のボーカリスト鈴本さんがバンド名の経緯(いきさつ)を話し始めた。ある晩、バンド名を考えながら寝たら梟(ふくろう)の夢を見た。そこで「ふくろう」→「おふくろ」→「母親」→「Mother」というように発展したというのだ。中学生にはそのセンスを理解するのはむずかしかったが、それでもカッコいいんだろうなと納得していた。「Mother」…今思うとなかなかいい。このバンドは後に「エリート」という名に変わってしまうのだが、ぼくは「Mother」の方が好きだった。

 「Mother」のメンバーを紹介しよう。当時、4人とも高校3年生だった。
◆鈴本さん:リードボーカル、リズムギター担当。リーダー。くせ毛を立派なリーゼントに仕上げていた。銀縁のめがねが似合う。グレコのリッケンバッカーモデルを使用。ジョン・レノンが使っていた黒のモデルだ。アンプは確かヤマハだった…と思う。
◆藍さん:リードギター、コーラス担当。丸顔で穏やか。鈴本さんの片腕的存在。グレコの2トーンサンバーストのストラトを使用。アンプは…覚えていない。
◆寺口さん:ドラムス、コーラス担当。ニヒルで渋い。くわえ煙草が似合った。ドラムセットのメーカーは忘れてしまったが、色はホワイト・パールだった。
◆江崎さん:ベース担当。江崎薬局の長男。部屋の持ち主。無口だが優しい。フェンダーのプレベを持っていた。色はサンバースト。ローランドのコンボアンプを使用。

 ぼくは数ヶ月後に高校に入学。ベースを買い、実際にバンドをやることになるのだが、この日の出来事がその後の音楽人生の大きなきっかけになったのは間違いない。「ぼくたちも高校生になったらバンドをやるんだ!」夢が目標に変わった瞬間だった。2ヶ月後、ぼくは「Mother」のサポートメンバーとして、なんとロックバンドのメンバーとして初ステージを迎えることになる。(つづく)

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
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