<五十三の葉>
母の日

 いつものようにパソコンに向かってみたのだが、少々戸惑っている。こんな気分は2ヶ月ぶりだ。「どんな文章が書きあがるか」という期待感とそれに対する程よい緊張感、そして、ちらほらとよぎる「書けなかったらどうしよう」という不安が微妙に入り混じった不思議な感覚だ。10日ほど前にもこうやってパソコンに向かいはしたが、その時とはあきらかに気分が違う。理由は簡単だ。書くべきことが明確に決まっているか、いないかの違い、つまりはっきりとしたビジョンがあるかないかの問題なのだ。ここ数編は、書きたいことが次から次へとあふれてくるようなテーマについてのエッセイだったから机に座ると迷うことなくキーが打てた。だが、そんな気持ちで書けたのは52編のうちでもほんの数編だ。その他はほとんどの場合、冒頭のような気持ちでパソコンに向かってきた。はっきりとしたテーマを持って書き始めても、そのテーマに沿ってなめらかに筆が進む時と、逆にまるっきり関係ない方向に進んでしまう時とがあった。書き終えてみると当初の予定とはまったく違うものになっていた、ということの方がはるかに多かった。ぼくのエッセイを「楽しみにしている」と言ってくれる人も多いが、書いているぼく自身も出来上がりを楽しみにしているひとりなのだ。頭の中の漠然としたイメージを、伝達手段のひとつである“文章”という目に見える形に変換するというのは、イメージを絞ったり、言葉を選んだり、言い回しを考えたり、といくつもの段階を踏むむずかしい作業とも言えるが、最終的には“その人なりのもの”にしか出来上がらないのだから、考えようによっては絵を描いたり曲を作ったりすることと同じなのかもしれない。

 48編目からひとつ前の52編目までは5編連続でひとつのテーマについて書いた。(そして、それはもうしばらく続く…) タイトルは『楽器の話』だが、内容はあきらかにぼく自身の成長の記録のようなものだ。(そのうち、タイトルを変えないといけないかもしれないな…)当初は3編ぐらいで終わる予定だった。最初に手にした楽器から現在使っている楽器までをざっと紹介しつつ簡単に振り返ってみようと思ったのだ。しかし、簡単に通りすぎるなんて無理だった。楽器そのものの話を書くと同時に、それらを手にした時の感情がなまなましくよみがえってきたのだ。これを書かずにはいられない。ある場面を描こうとすると、突然、思いがけないことまでが堰を切ったように思い出されてくるのだ。今だからこそ、ぼくは、当時のぼくをじっくりと観察することができる。着ていた服や自分の部屋の様子、友達の顔や教室の風景、校庭や野球部の部室、帰りにみんなで寄った店、徒歩や自転車で通った通学路、高校時代の電車通学や50ccバイク通学での出来事、あらゆることが鮮明に想い浮かんでくる。ふと気付くと、その時代の真っ只中に違和感なく居座っている自分を発見してびっくりすることさえある。カメラが楽器を徐々にクローズアップしていき、そのまま当時の映像が映し出される、なんて映画でよく使われる手法だが、まさにそんな感じなのである。人間の脳はまだまだ使われてない部分の方が多いそうだが、思い出がしまってあるたくさんの部屋の中でも10代の記憶の部屋はひときわ大きいようだ。扉の大きさからして違う。さて、月に1度はこの『楽器の話』を楽しんでいただくとして、あとの2編は別のテーマで書こうと決めたのだから、他の話にも触れてみようと思う。

 ぼくたち人間は母の胎内で生命体として誕生し、この世に生まれ出るまでの約10ヶ月を胎内で過ごす。このことは事実として知ってはいるが、どうもピンとこない。胎内、それも水(羊水)の中で10ヶ月も生きるなんてなかなか信じられないのだ。そのころのことを覚えている人なんていないだろうし、擬似的な体験をすることだってむずかしいだろう。生まれ出た後のこの世界を“宇宙”というのならその前の世界もまた“宇宙”に他ならない。つまり、母とは(女といってもいい)“体の中に宇宙を持っている人”ということになる。更にこんな話も聞いたことがある。約40億年前に地球上に誕生した最初の生命が人間になるまでの進化の過程を胎内にいる10ヶ月で辿っているというのだ。最初の生命は海から生まれた。だから、羊水の成分は海水とほぼ同じだというのである。(※最近は様々な化学物質の影響で羊水がにごってきているという。どこの宇宙も環境問題が深刻だ。)母とは“体の中に海を持っている人” でもあるのだ。「漢字の“海”という語の中には“母”がある。フランス語の母“MERE”(メール)の中には海“MER”(メール)がある。」誰の作品だったか忘れてしまったが素晴らしい発見だ。ぼくは20年ぐらい前、この感動から『Sea』という曲を書いた。

  “母”も“宇宙”も“海”もかけがえのないものだ。大切にしなければならない。そして、“宇宙”と“海”が永遠ならば“母”も永遠だ。母の日が近い。

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
----------------------
PAGE TOP
目次
ESSAY TOP
HOME