<五十五の葉>
楽器の話(六)

 1977年2月、無事に志望校合格を果たしたぼくは、高校入学後のバンド活動に照準を合わせた。「今から準備しないといけないな」まずはメンバーを集めることからだ。ドラムはすぐに決まった。カッツだ。 カッツはぼくと共に江崎薬局の下で“あの音”を聞いてしまったふたりのうちのひとりだ。彼とは中央保育園、東陽小学校、光中学校とずっと同級生だった。しかも小学校4年生からの6年間は一緒に野球を続けていた仲間でもあったからお互いに性格も知りつくしていた。カッツは中学3年生のときは1番バッターで俊足好打の外野手だった。言葉数も少なくけっして目立つタイプではなかったがしっかりと自分というものを持っていた。そして何より、彼もビートルズが好きだった。ぼくはカッツ自らがドラムに興味を持った…と思っていたのだが違った。彼に聞いてみると、どうやらぼくにドラムをやってくれ、と言われたことがきっかけだったらしい。当然、彼も完全なる初心者だったが、(※打楽器の経験は一般の中学生と同じくカスタネットぐらいのものだったろう。)「よし!」とすぐにパールのドラムセットを買ってしまうぐらいの根性があった。色はシルバー。ピカピカのドラムセットは彼の家の2階の6畳間で圧倒的な存在感を放っていた。当時でも10万円はしたはずだ。当時の彼の気持ちの入りようがよく分かる。その後、ぼくたちはこの6畳間にギターアンプ、ベースアンプを次々と運びこみ練習場として使わせてもらうようになるのだが、今考えるとそこで音を出すことを彼の両親はよくぞ許してくれたものだと思う。加減を知らないぼくたちの演奏はうるさかっただろうし、実際、初めのうちは近所の人たちからかなりの苦情があったはずだ。だが、カッツの両親はぼくたちのために近所の人たちを説得してくれた。そのおかげで土曜日の昼間ならOKということになり、まったく関係のない人たちからも寛大な心で見守ってもらえることになった。今でも本当にありがたいことだったと感謝している。カッツはまず「Mother」のドラム、寺口さんに手取り足取り基本を教えてもらってから、教則本を買い地道な練習を始めた。やはり、ドラムは彼の性に合っていたようだ。目に見えて上達していった。野球でもドラムでも職人肌だった彼は、まさに“職人”としての人生を選んだ。そして、その道でも自分らしさを貫いている。

 ぼくの母校、千葉県立成東高校は質実剛健を校風に持つ硬派のイメージの強い学校だ。校舎の形を絵にするとき、必ずと言っていいほど描かれる凸型のでっぱり部分の左右には巨大な下駄が据え付けられている。ぼくの知る限り東総地区では、生徒の下駄履きが許されていた唯一の学校だったと思う。(※申し訳ないが今でも許されているのか、はたまた県下で他にも下駄履きが許されていた学校があったかどうかは分からない。)生徒たちが履いていたのは黒い鼻緒のごく普通の下駄で、100人にひとりぐらいの割合だったと思うが、応援団だけは伝統を守り全団員が常に下駄を履いていた。中でも応援団長は白い鼻緒の10数センチの高下駄を履き颯爽と歩いていた。それはそれでかっこよかったのだが、当時のロックンローラーに下駄はタブーだった。「オレたちは違うぜ」と斜に見るのが当然だと思っていた。今のぼくだったらロッカーであっても絶対に下駄で通学したい。

 この年、光中学校から成東高校に進学した男子生徒はぼくを含めて5人だった。そのうちのひとりがミコトだった。 ミコトは小学校4年生の時に東京から引っ越してきた転校生だった。サラッとした質の良い長髪をなびかせ真冬でも短い半ズボンにハイソックスで通していた。マッチ棒が2本も乗るような長いまつげをした、まるで漫画の主人公のようなやつだった。ぼくたちはめずらしがってそわそわと近づいていったが、上級生からはすぐに「なにかっこつけてんだい!」と、いじめの対象になった。だが、やつは何度かは泣いたが、負けん気の強さでいじめに立ち向かい、そのうち上級生に何も言わせなくなった。ぼくも少しだが力になったことで親しくなり、それ以来の付き合いとなった。時々やつの家に遊びに行ったがやはり何かが違っていた。ぼくはそこで初めて都会の空気にふれた気がした。小学校の卒業式を控えたある日、ぼくとミコトは意を決して体育の先生のもとを訪れた。そこで揃ってバリカンを頭に入れてもらったのだ。光中学校の校則では男子は全員が五分刈りと決められていた。やつもぼくも五分刈りにはかなり抵抗があったのだが、中学校入学も近い。相談して「やるか!」ということになったのだ。ドサッドサッと落ちていく髪を見つめながら、ふと「これは次のステップに進むための儀式なんだ」と感じた記憶がある。今思うと、ぼくたちはその瞬間子供から少年になったのかもしれない。

 中学生になるとミコトもロックに興味を持った。よくレコードを貸してもらった。3年生の冬、ある寒い日だった。「バンドやろっか」と言うと間髪入れずに「やる!」と返事が返ってきた。 ミコトはグレコのレスポールモデルを買った。タバコサンバーストだ。やつはチューニングから苦労した。指が柔らかかったから難関の「F」コードは比較的早く押さえられるようになったが、リズムに苦しんだ。負けん気魂でリズムを克服しようと直向(ひたむき)にギターに向かった。その根性がやつの持ち味だった。やつは3年後、大学受験に失敗し浪人するが、予備校などには目もくれず1年間家にこもりひとりで勉強した。翌年、中央大学法学部に見事合格した。これにはみんな驚いた。大学生になるとギターがサーフボードに代わったがサーフィンでも根性むき出しだった。卒業しても仕事には就かずサーフィンをしながら司法試験に合格、事務所を開いた。仕事も、家庭もサーフィンもすべて順調にいっていた。これからがやつの本領発揮というときだった。それなのにあの日は突然やってきた。5年前のあの日、 ミコトは昼食後近くの海に繰り出し(それはやつの日課だった)サーフボードとともに海に散った。哀しみや苛立ち、苦しみや痛みとも違う感情があふれた。無力感とでも言ったらいいのだろうか。これが友の死か…。自慢のひとり息子を失った母の嘆きはいかばかりだったろう…辛い式の後、その母をぼくはしばらく抱きしめた。


 1977年3月、とりあえずバンドのメンバーは3人揃ったのだが、まったくもって心もとない。ぼくたちは「Mother」の練習に顔を出しては基礎的なことを教えてもらっていたが、2ヶ月弱ではいくら練習したとしても高が知れている。「初心者だけではダメだ。」「特にギターがもうひとりかふたりは必要だな。」「後は高校で経験者を探そう。」そう決めるとぼくはバンド名を考えることにした。

 バンド名の理想は「KISS」だった。(※今でもなんてかっこいいバンド名なんだろうと思う。)「THE BEATLES」は音楽的には一番好きだったが、「THE ○○S」という形にはあまり魅力を感じなかった。バンド名にしようなんてそれまでの誰もが考え付かなかった言葉…。けれども誰もが知っている言葉…。そんな言葉が理想だった。世界語とも言える“英語”で一語だと尚いい。「CREAM」「FREE」「THE WHO」等も参考になった。(※ある意味、「Mother」もこれに当てはまる。)だが、そんな魅力的な言葉を簡単に思いつくはずはない。当時すでにある程度出尽くした感もあった。ある晩、バンドの名前を考えながら寝ると“たらこ”の夢を見た。そこで「たらこ」→「くちびる」→「Lips」となった…というのはもちろん冗談だが、15歳の頭で考えあぐねた末、どうにかこうにか「KISS」から「くちびる」そして、「Lips」を連想したのだった。スケールが小さいのは否めないが、それでもカッツとミコトに「どうかな」と伝えると、ふたりは「おおっ、それだ!」と感動してくれた。

 不思議なことにこれだけドラマがありながらついさっきまでこの名前をすっかり忘れていた。「最初のバンド名を忘れるなんて…」と半ばショックでカッツに電話をしてみたのだが、彼も覚えてはいなかった。「KISS」がバンド名の理想だったよな、と思い至った瞬間に、ほんの数時間前に「Lips」という名が思い浮かんだのだ。30年前と同じ思考回路か?と思うとちょっとがっかりするが、そうではない。安心していい、単に思い出しただけだ。(笑)カッツにもすぐに電話で知らせた。高校入学を前に「Lips」はおぼろげにだが形を見せ始めた。船出は近い。(つづく)

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
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