<六十二の葉>
短編小説
『失くした男』(一)

 『あれ?どこやったっけ?』男はズボンのポケットを矢継ぎ早に探った。『な、ない…』と同時にすばやく立ち上がり座っていた長椅子と足元を見回した。『ま、まじ…?』男は一瞬にして凍りついた。『嘘だろ〜、やっちゃったよ』『どうしよう…』自分の家にいる時以外は常に携帯し、たとえ携帯しなくともいつでもそこと分かる場所、すぐに手の届く場所に置いておかなければならない大切なもの。そう、男はその大切なものを失くしてしまった。それは誰にとっても最も失くしたくない身の回り品のひとつだった。

 7月某日、駅前の郵便局内での出来事だった。3列に並ぶ待合椅子の1番前で達也は立ち尽くした。大銀行の傍でじっと耐えているような小さな局である。午前11時、いつも比較的空いている時間帯だ。普通だったらこんな昼間にそれも郵便局内で財布を失くすなんて考えにくい。彼は急いで記憶を辿った。『とにかく冷静に、冷静に思い出すんだ』ここに来たのはたかだか15分前だ。

 達也は局に入るとまっすぐに郵便のコーナーに向かった。並ぶ人はいない。彼は用意してきたふたつの小包のうちのひとつを何も言わずに秤の上に置いた。女性局員の「いらっしゃいませ」の声を聞きながら右手を見ると3列の長椅子には10人ほどが座って順番を待っている。達也は小包のひとつを秤に乗せたまま3メートルほど右に向かって歩き、順番を待つための番号札を引き抜いた。68番。みっつの窓口の横にある掲示灯には53、56、57が点っていた。『しばらく待つことになりそうだ』彼はもうひとつの小包を秤に乗せてから言われるままに料金を支払った。この時、間違いなく財布は手の中にあった。更に達也はそこで50円の記念切手を2シート求めた。万葉の歌人、紀貫之や持統天皇らの姿が全面に配され余白の部分には右側に名前が左には歌が添えてあってなかなかセンスがいい。達也は好みに合った記念切手にめぐり会う機会の多い郵便局に来るのが嫌いではなかった。

 断っておくが彼が記念切手を買うのは収集のためではない。使うためだ。彼は封筒にでも葉書にでもなるべく記念切手を使うようにしている。彼の母がそうだったように達也はいつの間にかそれを習慣としていた。普通切手でも記念切手でも値段は変わらない。ほんのちょっとの気遣いだが達也から郵便を受け取る人の何人かはなにかしら心温まる気分になるのではないだろうか。達也は小包と切手のレシートをしっかり財布にしまった。この時の財布の姿はまぶたの裏側に残像としてはっきり残っている。この時までは確かにあった。達也は財布をズボンのポケットには入れずに手に持った。

 達也が使っている財布は厚かった。中身が、ではない。財布自体の話だ。1年ほど前、近くのデパートのバーゲンで買ったものだ。色と形が気に入ったのだが、実際に使ってみると厚すぎてズボンの後ろのポケットには入れづらかった。これだとバックのようなものを持たなくてはならない。持ち物をなるべく少なくしようとするのは男の習性だ。大きい財布はつらい。それでもブルーのベルトの付いた象牙色の財布を達也は愛用していた。他人の財布の中身なんてほとんど見る機会はない。家族のようなごく親しい人たちにも見せないのが普通だ。親しき中にも…という理由で中身を覗かないのが暗黙のルールとなっている。しかし、この場合は話が違う。申し訳ないが郵便局で小包と切手代を支払った後の達也の財布の中身を披露、いや検証のために具体的に挙げてみることにする。達也の記憶のみが頼りなので不正確な点はご了承願いたい。

◆現金…2500円。思いの外少なかった。不幸中の幸いだと言っていい。普段は10000円ぐらいは入っている。誰でも20000円入っていたらと想像するとゾッとする。いや、10000円でもショックだ。
◆運転免許証…これを失くしたことにより名前はもちろん、住所、本籍、生年月日、そして顔まで知られてしまった。
◆銀行のキャッシュカード…再発行してもらうまで日々の生活費が下ろせない。困る。
◆スマイルカード…航空会社系のカード。このカードを使用するとマイルが貯まる。すぐにカード会社に連絡しなければならない。不正使用される危険がある。すぐに貯まったマイルを使われることはない。
◆ピースカード…デパート系のカード、近くに唯一あるデパートのカード。これを持っていると5%引きで買えることが多い。達也の町の住人のほとんどが恩恵に与っている。
◆ソーロンカード…コンビニのカード。このカードを提示するだけで安くなる商品がある。ポイントが付き半年ほどで500円ほどは貯まる。年会費無料。
◆ミファマカード…これもコンビニのカード。火曜日と土曜日は常に5%オフ。※火(か)、土(ど)→カード…語呂合わせだがなかなかセンスがいい。買い物をした日がたまたま火曜日や土曜日だとお得感が増す。
◆ホイヤルロストカード…これもポイントが貯まる。作るのに500円かかるがポイント数は比較的早く増える。達也はコツコツと2年以上も貯めていた。約2000円分貯まっていた。なぜだかこのカードの紛失は痛い。普段は車の中に置いてあるのだがたまたま前日使用し、そのまま財布に入れてあった。二重のアンラッキー。
◆名刺5枚…いつ誰と会うかわからない。名刺入れは別に所持しているが財布にも常に数枚は入れることにしている。これには携帯電話の番号とEメールアドレスだけでなくパソコンのEメールアドレスまで書いてある。免許証と合わせると丸裸だ。
◆トドールのコーヒーチケット3枚…コーヒーチケットを購入すると10枚分の値段で11杯飲める。差額を払えばコーヒーより高いものも選べるし、コーヒー以外の飲み物も選べる。ただ達也のように失くすかもしれないというリスクがある。ここのコーヒーは美味い。
◆コーヒーチケット4枚…別のコーヒーショップのチケット。達也はここにもよく顔を出す。
◆毎月16日の朝刊に掲載されている大将の餃子1人前無料券…某新聞だけかもしれないしそうでないかもしれない。持っているだけで1人前無料なのだから切り取らない手はない。(※つい3ヶ月ほど前までは毎月1日と16日に無料券の付いた広告が掲載されていたのだが、どういう訳か最近は16日のみになってしまった。)
◆映画館の無料券…年会員になると2枚の無料券がもらえる。何の映画を見てもいい。小さいが渋い映画を短いスパンで上映している。達也お気に入りの映画館。
◆会社の倉庫の鍵…ある場所にある倉庫の鍵。これをもし自宅の鍵だと疑われたら…。よろしくない男(あるいは女)の手に渡っていたとしたら…。ゾッとする。その人物は達也の自宅住所も会社の場所も電話番号もメールアドレスも生年月日もそして顔さえ知っている。
◆自動車保険のカード…これは大丈夫だ。更新すれば新しいカードが送られてくる。
◆ごはん de 大黒屋のカード…作ったばかりだからさほど問題はない。

 他にもまだ何かあったのかもしれないがほぼ出尽くしただろう。書き出してみると見事なものだ。こんなにたくさんの貴重品が入っていたのだ。本当に失くしてしまったのだろうか。もし、そうなら精神的ショックは安倍総理や朝青龍ほどではないにしろかなり大きいはずだ。はたして達也の財布はいつ、どこで、どのタイミングで失われたのか…。落としたのか、盗られたのか、盗まれたとしたら誰が、何のために…。真相は謎だ。財布が失われたと気付いた瞬間からの達也の数時間を追ってみたい。(つづく)


※第2話は8月20日に掲載します。

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
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