<六十三の葉>
短編小説
『失くした男』(二)

 「なんだぁ、こんな所にあったのかぁ…」「びっくりさせるなぁもぉ…」「ふーッ…よかったぁ〜」達也が思い出したのはここ1ヶ月の間に何度か口にした台詞だった。正直、あの財布を見失って慌てに慌てたことが何度かあった。結果的にはホッと胸をなでおろし、冷や汗をかくだけで済んだのだがこの日だけは勝手が違った。“ホッ”とはできずに“ハッ”としたままの状態が続いているのだ。今回ばかりは先の台詞の出番はなさそうだ。達也は今になって、心のどこかで恐れていたことが現実になってしまったような気がした。『前兆だったのかなあ…』しんみりとつぶやいた。そして『焦らずに…』ともう一度自分に言い聞かせてからゆっくりと時間の経過を追った。

 切手を買ったまではよかった。達也はその足で長椅子の方に向かいその手前にある…何と呼べばいいのだろう。机のようで机ではなく、台ではあるがただの台ではない、“楕円形のカウンター”とでも言えばいいのだろうか。その《紐で括られたボールペンや朱肉があって名前やら何やらを記入するカウンター》の上に手に持っていたものすべてを置き、ズボンの前ポケット(左側)から携帯電話を取り出した。小包を送ったことを相手に知らせるためだ。達也は目上の相手に失礼のないよう集中してメールを打った。無事送信が終わると、2件ほど返信しなければならないメールがあったことを思い出した。『やっちゃうか』メールの受信欄からそのメールを探している時だった。3列目の左端にすわっていた老婦人が立ち上がって窓口へと向かった。達也はしめしめと左手でメールを打ちながら右手で台の上に置いた荷物をつかみその席に向かった。達也が立ったままメールを打ったこの場所を第1ポイントと呼ぶことにする。この第1ポイントに財布を置き忘れ、第三者に持ち去られた確率はおおよそ45%だと達也は推察した。あのとき右側にいたのは…女性だ。30歳ぐらいの女性に間違いない。

 達也は第2ポイントとでも言うべきその3列目の長椅子の左端でメールを打ち続けた。打ち続けたといっても時間にするとほんの2、3分のことだったろう。その時「66番の方、1番窓口へお越しください」と機械が呼んだ。『おっ、なかなかいいペースだ。もうすぐ俺の番だな』68番の札を持つ達也は前を向いた。その瞬間、窓口のすぐ前にある1列目の長椅子から母娘と思(おぼ)しきふたりの婦人が立ち上がるのが見えた。何を思ったか、達也は再びおもむろに荷物をつかむと1列目へと急いだ。そして、そこでも自分の右側に荷物を無造作に置いて座った。財布を第2ポイントに置き忘れた可能性もおおむね45%だろう。残りの10%のうち9%は切手を買った場所から第1ポイント、第1ポイントから第2ポイント、そして失くしたことに気付いた最終ポイントへの移動中に落とした可能性だ。だが、やはりこれは考え難い。落としたのなら音あるいは小さな衝撃があるはずだし、本人が気付かなくとも誰かしらが気付くはずだ。やはり第1ポイントか第2ポイントに置き忘れ、何ものかによって持ち去られたと考えるのが自然だ。最後の1%は何か…。1%では多すぎるかもしれないが超自然現象によるものだ。誰に何と言われようとこの可能性は否定できない。ハンバーガーの写真から本物のハンバーガーを取り出してしまうようなマジックが眼の前で行われる世の中だ。超能力、魔法、術(※昔忍者が使ったとされる)、ドッキリ(※すぐに種明かしされるはずなので可能性は低い)、宇宙人の悪戯、狐と狸の化かし合いの巻き添え…等々。これらのせいではない、と決して断言はできないのだ。「この世には不思議なことなどないのだよ、関口君」京極道の名台詞が浮かぶ…。もちろん当の達也がこんなことを考えたのは何日か後の話だ。財布がどこかに消えたと自覚した瞬間からしばらくはパニックに陥りそうな心と戦わなければならなかった。

 2通のメールを送信し終えた達也はやっと少しの余裕を持った。顔を上げてボーとした途端に何となくいやな気がした。『あ!!』彼はすぐに自分の持ち物を確認し始めた。『あれ?どこやった…?』『な、ない…』『ま、まじ…?』『嘘だろ〜…やっちゃったよ』『どうしよう…』達也の口からはショックの言葉が矢を継いで飛び出してくる。声にはなっていない。正真正銘、身の周りにないと悟った瞬間からの行動は迅速だった。まず達也は窓口に急いだ。遠慮すべき時ではない。「すみません!落とし物届いてないですか?」「財布なんですけど…」達也は努めて冷静を装って尋ねた。もし、達也が財布を落とし、誰かがそれを拾って、いや、見つけてくれていたとしたら、まず局員に届けてくれるだろうと思ったのだ。『ここは日本だ。その確率が高い』女性の局員は財布と聞いた途端にちょっと真面目な顔をした。そして、小走りで他の局員の間を回ってくれた。達也はその様子をじっと眺めていたが次第に落胆の表情に変わっていった。どの局員も顔を横に振っている。『だめか…』達也は女性局員の報告を待つまでもなく次の行動に移る準備をしていた。「届いてないそうです…」本当に申し訳なさそうに語る局員に「そうですか。ありがとうございます」と返事をするやいなや達也は第2ポイントに向かって走った。待合椅子に座っていた人たちはただならぬ空気を感じ取っていたせいか、誰もが思いやるような眼差しで心配して見てくれているように思えた。第2ポイントに座っていた老婦人も「ちょっと、すみません!」と声を掛けると同時に席を立ってくれた。達也の眼は椅子、床、椅子と椅子の隙間までを瞬時になぞった。再びなぞった。『ダメだ…』達也の“希望メーター”の値がググンと降下した。だが希望は捨てない。次に急いだ第1ポイントの楕円形のカウンターの上にも財布の影はなかった。『ここもダメか…』達也の頭の中ではここにきてやっと“まさか”と“現実”がひとつになった。いや、ひとつになってしまった。本当に深刻な状況に陥ってしまったのだ。彼は心の底から自分の無防備さを悔やんだが後の祭りだった。それでも達也は念のために第1ポイントから最後に財布を使った郵便窓口へと足跡を辿りそこにいた局員にも聞いてみたが答えは無残だった。

 第1ポイントも第2ポイントも完全とは言えないが死角になっていた。ポツンと置かれている財布に気付いたらそっと自分のバッグやポケットに忍(しの)ばせるのは簡単だ。人を疑いたくはないがきれいごとばかりは言っていられない。『やはり、やられたか…』結局、達也は郵便局内では財布の痕跡らしきものさえも見つけることはできなかった。“希望メーター”は一桁を切った。『あきらめるしかないのか…』達也は奈落の底に体半分を落としながらもどうにか踏みとどまった。砕けそうになる感情をグッと飲み込み、ほんの少しだけ上を向いた。『失くしたものはしょうがない』『今からは無くなったものとして行動しなければ』強い気持ちが頭をもたげてきた。その気持ちは、最悪の状況から自分を守るためにどうしても持ち続けなければいけないものだった。達也は数%の望みを絶ち切ると、メモ用紙に自分の名前と電話番号を書き記し「もし、出てきたら連絡ください」と言い添えて局員に渡した。『まずはクレジットカードの悪用を防がないと…』開きかけた自動ドアを両手で押し開けながら達也は外へと飛び出した。一気に走り出したいところだったが『今こそ落ち着くべきだ』と自分に言い聞かせて歩みを緩めた。それでも冷や汗は背中を伝う。新たなる戦いに向けて武者震いする達也だった。(つづく)


※短編小説『失くした男』は当初、前後2編の予定でしたが、書いているうちにどんどん構想が膨らみ紙面が足りなくなってしまいました。今編での結末を楽しみにしてくださっていた方には申し訳ありませんが、もう少し(あと1回か、あるいは2回か3回か…)続きます。これからがいよいよ後半です。第3話は9月10日に掲載します。今後の展開をお楽しみに!

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
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