<六十四の葉>
楽器の話(九)

 “前座”の座が危うくなってきた。前座はメインのバンドなしでは成り立たない。土曜日には必ず行われていた「Mother」の練習は2週間に一度、そして3週間に一度、というように目に見えて少なくなっていった。それは「Lips」の練習回数も減ることを意味した。時には“前座”から“メイン”、いや“ワンマン”に昇格してぼくたちだけで練習させてもらう、ということもあったがいくらなんでもそれでは申し訳ない。そんな時は気が引けて早めに切り上げるしかなかった。ある土曜日、この日も「Mother」の練習は休み。「Lips」も休むことになった。ぼくは当然であるかのようにカッツの家に向かった。ミコトもやって来て三人が顔を揃え、期せずして“ミーティング”ということになった。ミーティングというと聞こえはいいが、何となくみんなで集まったに過ぎない。思い出してみると当時は不思議と友達の行動が分かっていたような気がする。ぼくたちに限ったことではない。みんながみんなそうだった。“10代のテレパシー”とでも言ったらいいだろうか。仲間にしか分からない連帯感のようなものがそこにはあった。“マジック”と言い換えてもいい。現代の携帯電話の役割をその“マジック”や“テレパシー”が十二分に果たしていた。誰でも思い当たる節があるはずだ。あの感覚はなんとも言い難い。ほんとうに懐かしい…。思い出していると自然と笑みがこぼれてしまう。“甘酸っぱい”とはよく言ったものだ。確かにそんな表現を恥ずかしくもなく使えてしまう唯一の世代なのだ。ただ、二度と味わえないという一抹の寂しさが浮かんでくるのも事実だ。一度しかないからこそ、もう決して得られないからこそ“本当の宝物”と言えるのだが、だからこそふと湧き起こる寂しささえもいとおしく思えてくる。この“10代の奇蹟”を覚えていてもいなくても心の奥底に沁み込み、刻み込まれたあの輝きが色あせることはない。それどころか歳を重ねるにつれてあざやかさは増すに違いないのだ。さて、「Lips」のミーティング。バンド結成以来、常にテツロウはいない。彼はどこかで高校生活をエンジョイしているに違いないと内心ではみんなうらやましく思っていたのだが、誰も口に出そうとはしない。とりあえず光町に住む3人でこの危機を乗り越える手立てを考えなくてはならなかった。『このままでは練習できなくなってしまう』『どうしたらいいんだ…』練習場所の確保問題が再燃してしまった。「Mother」の前座という喜びは束の間だった。しかし、ぼくたちの心の中にはそれとは違う不安も頭をもたげ始めていた。『「Mother」はどうなっちゃうんだろう』あこがれの「Mother」の異変にぼくたちは気付き始めていた。

 高校を卒業して社会人となりメンバーがそれぞれの道を歩み始めるとバンド活動は突如としてむずかしくなる。バンドは少人数の世界だ。ひとりひとりの比重が大きい。メンバー4人のうちひとりでも休むと練習は成り立たなくなってしまう。「Mother」の変化は今考えると当然のことだった。高校生から突然社会人になるということがどれだけ大変なことか…。今ならよく分かる。当時は今でいうフリーターという職種(というのか?)、状態(というのか?)の概念すらなかった。社会に出るということは“一生の仕事を持つ”ということを意味した。甘えは許されない。新社会人は新しい環境に慣れなければならなかった。まず仕事のいろはを覚えなければならない。(※どんな仕事でも簡単にはいかない。)人間関係も築かなければならない。(※初めて会う人ばっかりだ。)肉体を仕事に適応させなければならない。(※夜中の仕事もあるのか…)心も。(※ぼくにできるだろうか…)そして周りも一人前の大人として扱うようになる。(※もう学割は利かないんだ。)いくら音楽で食べていきたいと思っても『日々の糧はどうするんだ?』ということになってしまう。(※プー太郎なんて親は許してはくれない。)仕事のない休日は心身ともに休めたいと思うのは人情だろう。(※とにかく眠りたい。)

 鈴本さんを中心に一枚岩を誇っていた「Mother」だったが、これだけの逆境(と言ってもいいだろう。)に立ち向かうのは容易ではなかった。鈴本さんにしたって休日に往復4時間をかけてバンドの練習に行くだけのエネルギーが失くなったとしても無理はない。もしバンドのメンバーひとりだけがそういう状況になったのなら時間を合わせることができたかもしれないが、4人がそれぞれ新しい仕事を始めたのだ。バンド活動が少し遠のいてしまったとしても誰を責める訳にもいかなかった。それでも「Mother」はなんとか踏ん張ってバンド活動を続けた。心機一転「Mother」から「Elite」に改名したのだが、彼らはその後2年をもって活動に終止符を打った。

 バンドを続けることの厳しさを垣間見たはずなのだが、高校1年生は無鉄砲だ。『オレたちはやってやる!』意思だけはやけに固い。いや、夢が大き過ぎて…、3年後なんて遠すぎて…、まったく考えていなかったに等しい。でも1年生はそれでいいのだ。(…それでいいのだ?バカボンのパパじゃないか…とほほ。)もとい!1年生はそれでいいのだ。夢だけを見ていても笑って許してもらえるのが1年生の特権だ。そして、そんな時期もきっと必要なのだ。結局、「Lips」はカッツ宅で練習させてもらうことになる。カッツから相談を受けた両親が英断を下してくれたのだ。渡りに船である。『やった!!』ぼくたちはうれしさに湧いた。コーラで乾杯だ!こうして「Lips」は新たな練習場所を得た。ぼくたちは早速練習を始める準備にとりかかった。

 ドラムセットはあったから、まずはそれぞれがアンプを手に入れることから始めた。越川楽器でぼくはローランドのベースアンプGB-50を、コウチはヤマハのアンプを買った。ローランドGB-50は江崎さんと同じものだ。このアンプはパイオニアのスピーカーを搭載していた。ベースアンプに関しては他に選択肢がなかったように思う。大好きなアンプだったが高校3年生の秋に手放してしまった。Music Lifeの「売ります」コーナーに投稿して愛知県だったか岐阜県だったか中部地方の人に譲ってしまった。今思うとこれも心残りだ。残念なことをしたものだと思う。クリアないい音のするアンプだったが今ではまったく見かけなくなってしまった。(※ここ20年ぐらい一度も目にしていない。あれほど売れた楽器だったのにどこに行ってしまったのだろう。)先日、ローランドのギターアンプ、JC-120(Jazz Chorus:通称ジャズコ)にベースを通してみた。驚いたことにGB-50に似た音がした。JC-120は70年代から2007年の現在まで使われ続けている超定番アンプだ。30年もの間、現役でいるなんてすごい!感動ものだ。ここでひとつ秘密を打ち明けよう。越川楽器で買ったアンプはコウチとふたりで交渉してどうにか3回払いにしてもらったのだが、ふたりとも3回目の支払いは未だに滞っている。『申し訳ありません!!』本当にそう思うが30年前のこと、さすがにもう時効だろう。楽器店もとっくに忘れているだろうが、もし分かったとしても…笑って許してくれるに違いない(笑)。秋葉原に行ってマイクとマイクスタンドも手に入れた。楽器が揃い始めた6月後半になるとテツロウがやっと重い腰をあげた。(つづく)

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
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