<六十五の葉>
短編小説
『失くした男』(三)

 道すがら、達也は可能な限り頭を働かせ続けた。人間の脳は使われていない部分がかなりの割合を占めている。しかしこの日ばかりは無意識のうちに『必要とあらばいつでもどうぞ。ただし、ちょっとやそっとじゃ動きませんぞ』と眠ったままでい続ける脳の未使用部分にまで深く働きかけていた。いざという時、人間は思いがけない力を発揮することがある。歩くのもやっとだったというおばあさんが火事に気付き、普段は到底持ち上げられないような重い箪笥(たんす)をとっさに抱えて外に出てきたという嘘のような本当の話(あるいは本当のような嘘の話か)を聞いたことがある。所謂(いわゆる)“火事場の馬鹿力”だ。この日の達也の脳の動きと働きはこれに似た現象だったのではないだろうか。彼の脳が非常事態だと認識した瞬間にリミッターが一時的に解除された。そして、並のパソコンには負けないパワーとスピードを得た脳の働きによってあっという間に綿密なスケジュールが組み立てられたのだ。それは達也自身にとっても初めての感覚だった。

 なによりも先にクレジットカードの不正使用を防ぐ必要があった。中には不正使用されても被害から守ってくれるというカードもあったが、その前に他人にカードを使われるということ自体が不愉快だ。使われる前にカードを使用不可にしてしまいたい。達也はそれほど几帳面という訳ではなかったが送られてきたカードの台紙はほとんど捨てないで取ってあった。コンビニのカードを含むクレジット機能付きの4枚のカードのうち1枚だけ台紙のないものがあり、そのカード会社の電話番号だけがわからなかった。これは後回しにした。コンビニの2社からだ。達也はまずソーロンカードの問い合わせ先をダイヤルした。平日の昼間ということもあってかすぐに呼び出し音が聞こえた。「トゥルルル‥トゥルルル‥」2度鳴ってすぐに繋がる。「カチャ」「もしもし!あの…」達也の問いかけを遮(さえぎ)るように抑揚のない女性の声が聞こえた。「こちらはソーロンカードです…」録音された声だった。達也は逸(はや)る気持ちを抑えじっと聞き耳を立てた。電話の声はたくさんの問い合わせを捌(さば)くためのもので、内容は用件別にキチッと整理されていた。しばらく操作方法の説明があってから核心部分に入って行く。「…盗難、紛失の方は1をダイヤルしてください」『これだ!』彼はすぐにダイヤル1を押した。用件によって指定された番号を押すのだが、なるほど盗難や紛失の項目は最初に用意されていた。これでいい。別の呼び出し音が数回鳴り今度は正真正銘人間の声がした。「どうされましたか?」「クレジットカードを失くしました」失くしたのか、盗まれたのか、隠されたのか、この時点ではまだ分かっていなかったが、すかさずこう答えた。そして、聞かれるがままに電話番号を告げると、住所、生年月日による本人確認の後、「最後に使ったのはいつですか?」と聞かれた。ソーロンカードで支払いをしたことはなかったからそう答えると「だいじょうぶです。不正使用はありません」とすぐに返事が返ってきた。『フーッ…一安心だ』そのままカード再発行の手続きをすると達也は受話器を置いた。新しいカードは1週間くらいで送られてくるという。ふと、再発行する必要はあったかと自問したが、なぜか“元の形に収まりたいという本能に近い欲求”(そんなものあるのか?)によって同意してしまった。次にミファマカードに電話をすると同じような操作の後に同じように人の声がして「ピースカードもお持ちでしたか?」と聞かれた。『!?』なんとこの2枚のカード、発行元が同じだったのである。「はい、そのカードも一緒に失くしました」唯一、連絡先が分からずにどうしようかと思っていたカードの名前が思いがけないところから飛び出してきた。「2枚とも使用停止に致しました」『やった!一石二鳥とはこのことだ』達也は胸をなでおろし、ささやかなラッキー感(こんな時だからこそ本当にうれしく感じるのだ。)に包まれた。そして、間髪入れずにスマイルカードの問い合わせ電話番号をダイヤルした。幸いなことにスマイルカードにも不正使用はなかった。結局、1週間以内に4枚のクレジットカードすべてが戻ってくることになった。

 次は銀行だ。銀行のキャッシュカードも無事だった。ただ、キャッシュカード再発行の手続きには通帳と身分証明書が必要で手続きをしてから手元に届くまで、やはり1週間はかかるとのことだった。『現金はそれまでおろせないのか…痛いな』と思いながら今日中に銀行に行くことをスケジュールに組み込んだ。

 銀行の次は警察だ。警察に電話するなんてめったにあることではない。達也は警察というと110番しか頭になかった。110をダイヤルすると間髪入れずに低い声がした。「どうしました?」かなり真剣だ。達也はちょっと怯(ひる)んだが「免許証を失くしたんですけど…」と言うと「それは警察署に電話してください」口調は強い。それでも「お住まいは?」「…です」「○○○−0110に電話してください」「ありがとうございます」そして最後に「110番は緊急の番号です。今後は気をつけてください」と言われた。「は、はい。すみません…」警察官の真剣さは達也を納得させるのに十分だった。よく考えるとそれは当たり前で、110番に出る警察官は常に緊急事態を想定しているのだった。『こうやって市民を守ってくれてるんだな』『この事実をもっと一般の人たちに知らさなければ』と一瞬だけ正義感が顔を出した。達也は区や市の警察署の電話番号は一般と同じ局番、桁数であること、そして下4桁はどこでも「0110」であることを知った。さらには警察署と110番とは違うんだということも知った。『ひとつ勉強になった』本気でそう思った。

 市内の警察署に電話すると今度は「はい、○○警察」とちょっとやわらかい声が響いた。「どうしました」「免許証を失くしたんですけど、どうしたらいいでしょうか」達也は写真と身分証明書さえあれば近くの警察署ですぐに新しい免許証を発行してもらえるものとばかり思っていた。だが甘くはなかった。「免許証用の写真と身分証を持って自動車免許試験場に行ってください。手数料が3650円ほどかかります。」『試験場かぁ…』達也にとって試験場という響きは心地よいものではなかった。いや、多分誰にとっても同じことだろう。達也は運転免許証停止(所謂、免停である。)の行政処分を受けたことがあり何度もそこを訪れていたのだった。『はぁ…また行かなきゃならないのか…』急に体が重くなったがそれでも気力を振り絞らなければならない。今日中にすべての手続きを終えないと明日以降も憂鬱な気分をひきずったままになってしまう。それだけは避けたかった。『午後1時半だ。時間はまだある』達也は意を決して行くべき場所すべてを今日中に回ることにした。

 『抜かりがあってはならない』達也は頭の中で組み立てたスケジュールを、メモ用紙に書き込んでいった。そして、目を閉じてざっとシミュレーションしてから、メモをしまい準備に取り掛かった。着替えの用意をしながら『今、費やしている時間と労力にも意味があるのだろうか…。今日は長くなりそうだ』と納得しきれない気持ちを振り払いながら再度覚悟を決めた。達也はふーっと息を長く吐き出しながらジーンズに足を通した。(つづく)

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
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