<六十六の葉>
短編小説
『失くした男』(四)

 達也はピースデパートのエスカレーターの上にいた。免許証用の写真を撮るために5階のカメラショップに向かっていたのだ。平日の館内は空いていた。カメラショップにも他にお客さんらしき人はいなかった。達也はゆっくりとカウンターに進み「すみません。免許証の写真お願いしたいんですけど」と声をかけた。「はい、ではこちらにいらしてください」そのまま店の一角にあるカーテンで仕切られたスペースに連れて行かれると言われるまま椅子に座った。証明写真なんていつ以来だろう。3年ごとの免許証更新の度に試験場の近くの代筆屋で証明写真を撮ってはいたがこの様な形でカメラの前に座るのは9年前にパスポート用の写真を撮って以来だと思い出した。誰もが感じることだと思うが証明写真を撮る空間には独特の緊張感がある。正面きってカメラを向けられるとどことなくぎこちなくなってしまうものだ。

 まず“普通の顔”というのがむずかしい。“力の置きどころ”とでも言ったらいいのだろうか。目の開き具合や口の閉じ方が微妙に気になってくるのだ。気にしだすと普通の顔をしているつもりでも何となく違和感がわいてきてどんどん自分の顔がわからなくなってしまう。“普通の顔”を定義するならば『これが自分の顔だと意識していないときの顔』ということになる。これはむずかしい。意識した瞬間に普通の顔ではなくなってしまうからだ。そもそも自分の顔とはいったいどんな顔なのだろうか。人は普段は顔にゴミがついていないかとチェックしたり髪型などが気になるとき(※女性がよく鏡を見ることも同様)以外、自分の顔など意識しないものだ。人は鏡がなければ自分の顔を見ることさえできない。そうなるとその人の“普通の顔”は他人が決めるものということになる。顔を動かす無数の筋肉の1本1本が表情を作る。筋肉を動かすのは脳だ。鍛えられ磨き抜かれた脳が発する信号こそが美しい顔を作ると言っても過言ではない。

 達也もカメラを前に『こんな大事なときに』と思いながらもどんな顔をしたらいいのか悩んでいた。真剣な顔をし過ぎてもいけないし、ニカッと笑った証明写真も不気味だ。警察の手配書やお笑い芸人の履歴書のような写真だけは避けたいと思うのは人の常だ。達也はふと思った。『そういえばメジャーリーガーをはじめとするアメリカ人の証明写真は何であんなに笑顔なのだろう』これは多くの日本人が感じていることではないだろうか。アメリカ人にとっては“普通の顔”なのだろうが我々日本人にとってはかなり不自然に見える。日本人は作り笑いや意味のない笑いを嫌う。いや、心の深い部分で嫌悪感を抱いているとしか思えない。逆にアメリカ人にとっては日本人の証明写真は能面のように表情のない“みな同じ顔”に見えるようだ。日本人の心には東洋哲学や武士道の精神が脈々と流れている。良し悪しは別として感情を大袈裟に表現することを慎み、少々のことでは表情を変えないのを美徳としてきた。アメリカ人はというと“移民の国”だということが重要な意味を持つような気がしてならない。アメリカは様々な文化を持った人々が集まってできた国だ。微妙な表情の変化を読み取ってお互いの意を汲むのはむずかしかったのではないだろうか。そこで笑顔が不必要な争いを避けるのに大きな役割を果たしたのだろう。笑顔は見知らぬ人に『私は敵ではありませんよ』ということを暗に伝えるための手段だった。自分を守るための“武器”のひとつだったのだ。銃を持つ国ということも要素のひとつだったかもしれない。

 理由は何であれ少しでも自分の理想に近いものを、そして他人に見せられる写真を、とむなしい努力をするのだがどうしても気に入ったものが撮れないのが証明写真だ。その証拠に免許証やパスポートの写真に満足しているという人には出会ったことがない。達也も例にもれず2度ほど撮り直しをしたが気に入った顔は現れてこない。デジタルカメラだからいくらでも撮り直しが利くのだが店員に「2回までなら撮り直しできます」と言われていたこともあってあきらめた。「これで結構です」「30分ほどで出来上がります。この紙を持っていらしてください」達也は店員から1枚の紙を受け取って歩き出した。次の訪問地は銀行だ。『時間がかかりそうだなあ…』達也はエスカレーターを駆け下りた。(つづく)

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
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