<六十八の葉>
体育の日

 物心ついてからつい数年前まで“体育の日”は10月10日と決まっていた。大学を中退してからはカレンダー通りの生活というものにまったく縁がなくなってしまって祝祭日にもピンとこない日々がずっと続いている。ミュージシャンにとっては“仕事のない日”が休日なのだが家にいてもやることはたくさんある。たとえば作曲したりフレーズを考えたり等の作業も仕事に関係しているから休みとそうでない日の区別がむずかしくなる。そんな時は「忙しい?」と聞かれても忙しいといえば忙しいし、忙しくないといえば忙しくないという状況なので答えに窮してしまう。仕事を、音楽をどう捉えるかによって日々の過ごし方が違ってくるように思う。休日をどう考えるかはミュージシャン、いや、誰にとっても同じだろうがそれぞれの生き方の問題なのだ。ここ数年はメリハリをつけて休むときはしっかり休むようになった。文字のごとく(「人」+「木」=「休」)緑の中でゆったりするのが理想だ。

 10月10日だった“体育の日”は1998年に成立した“国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律”(通称ハッピーマンデー法)によって2000年から10月の第2月曜日になった。それからは“体育の日”は毎年違う日にやってくる。7年経った今でも何となく複雑な思いだ。違和感を感じてしまうのはぼくだけだろうか。ちなみに今年は8日だった。“体育の日”は『スポーツに親しみ健康な心身を培(つちか)う』ことを趣旨としている。1964年10月10日に東京オリンピックの開会式が行われたことにちなんで1966年に国民の祝日として定められた。体育とは『健全な身体の発育を促し運動能力や健康で安全な生活を営む能力を育成し人間性を豊にすることを目的とする教育』であるから児童・生徒諸君はその旨よく心に刻んで(笑)授業を受けてほしい。

 言うまでもなく祝祭日とは国が定めた日曜日以外の休日のことだ。明治憲法下の祝日法では祝日と祭日にはっきりとした区別があったが1948年の“国民の祝日に関する法律”によってすべて廃止され“国民の祝日”がそれに代わった。ぼくが小学校6年生だった1972年までは日曜日と祝祭日が重なった場合、休日が1日減っていた。そんな時は損をした気分にもなったがそれはそれでみんなおもしろがって受け入れていたように思う。1973年に祝日法が改正されて月曜日を振替休日とすることになった。確実に連休にしようということなのだろうが欧米に倣ったのか政府の国民へのご機嫌取りだったのかは分からない。だが、本当に日本人気質に合っているのかどうかを判断するのはむずかしい。

 ハッピーマンデー制度が適用される祝祭日は“体育の日”の他には“成人の日”“海の日”“敬老の日”だけだ。あとの祝祭日は日にちそのものに意味があるから(※紀元節に由来する建国記念の日、日本国憲法公布の日である文化の日や施行の日である憲法記念日、そして天皇誕生日など…)ハッピーマンデー制度が使えないのだ。これらの祝日は日曜日と重なった場合のみ振替休日制度によって月曜日が休みになる。それにしても“ハッピーマンデー”とはものすごいネーミングだ(笑)。現在連載中の短編小説『失くした男』の中に出てくる“ピースデパート”や“スマイルカード”と同じようなレベルでなんだか笑ってしまう。(※もちろんぼくはユーモアのつもりで名付けている。)老いも若きも男も女も…誰にとっても分かりやすい呼び名をという視点から考えられたのだろうがいかにも国が考えそうな言葉だ。もう少し何とかならなかったのだろうか…。ふと、JRも最初は“E電”だったのを思い出した。

 “体育の日”前後は日本各地で運動会が行われる。今年は何年か振りに母校『東陽小学校』の運動会に出かける機会に恵まれた。実家に帰った日が偶然にも運動会で2年生の姪と保育園年長(来年1年生)の甥が出場するのだった。その日は9月中旬だというのに30度を超える猛暑だった。半日余りでひどい日焼けをしてしまった。顔はキャップをかぶっていたおかげでそれほどでもなかったのだが、Tシャツからのぞいていた両の腕はひどいことになった。何年もの間、鋭い直射日光にさらされていなかった肌は数日後に皮がむけるほど焼けた。

 校舎は変わってしまったが運動場と体育館はぼくが在学していたころのままだ。小学生時代に6回、保育園の年長のときに1回、計7回の運動会で駆け回った運動場は少し小さく見えたが、役員や来賓の席も紅白の陣地も用具の置き場所も同じだ。変わっていたのは父兄の佇まいだ。南仏の避暑地を思わせる(※ちょっと大袈裟か。ははは)色とりどりのパラソルが所狭しと並んでいた。それは見事なものだった。大きなパラソルの下にはテーブルと椅子が組み立てられいかにも涼しげだ。父兄の多くは自分の子供の競技が始まることになるとビデオカメラを携えてベストポジションに移動する。子供たちの溌剌とした映像をおさめようとがんばるお父さん達も負けずに溌剌としていた。子供の頃の映像を残せるなんて本当にうらやましいと思う。誰だって自分の幼い頃の姿を見てみたいと思うはずだ。もうひとつ意外に思ったのは屋台の数だ。学校の外にかき氷の店が一軒だけ店を広げていたが30数年前は学校の内外に数十軒もの店があふれていた。それぞれに良さがあるが先生と児童、それに家族だけの運動会というのもいいものだった。

 子供たちはみんな一生懸命に走っていた。必死に走っていた。その姿は見るものを感動させ、温かい何かを思い起こさせてくれる。1等賞の栄誉を与えられる子はひとりだけだ。それでも3等よりは2等、5等よりは4等と必死に食らいつく姿はいじらしく愛(いと)おしい。紅白の陣地を見てみると5年生、6年生から選ばれた応援団は長い鉢巻をなびかせて大旗を振っている。下級生のあこがれだ。2曲の応援歌は30年前と変わらない。ぼくは2曲とも一字一句違わずに歌えた。

 突然BGMが大きくなった。スピーカーが割れんばかりのものすごい音をたてている。周りの父兄は平気な顔をしていたので不思議だったがぼくはいてもたってもいられなくなった。本部テントの放送ブースに行くと放送委員であろう6年生に向かって言った。「ちょっと大きすぎるね」そして「いい?」とつぶやきながらボリュームを適音まで下げた。放送委員の子は怪訝(けげん)そうな顔をしながらぼくをじっと見つめていたが相手が子供だからといって悪音をそのままにしてはおけない。音楽は競技にマッチした音量でグラウンドに響くようになった。せっかく運動会に来たのに参加しないで帰る訳にはいかない。ぼくは父兄による地区別の大縄跳びに知らぬ顔をして参加してみた。案の定、足を引っ張りまくり迷惑をかけてしまった。橋場地区のみなさん、すみません!

 午前の競技が終わると昼食だ。家族みんなで待ってましたとばかりに腰を下ろした。お腹はペコペコだ。たくさんの料理は見ているだけでもお腹一杯になりそうだ。そう思いながらもぼくは子供たちよりも先に手を出していた。ガツッと食べた。『うまい!』母の手料理は子供の頃も今も変わらない。慌てないようにと気をつけながら少しずつ味わって胃袋に収めていった。午後は鼓笛隊の行進からだった。指揮者はすらっとした女の子だ。上級生全員を従え堂々と行進している。ぼくはその姿を見ながら自分が6年生の時に指揮をしたときのことを思い出していた。あれは小さな夢が叶った瞬間だった。

 保育園年長の時、初めて参加した小学校の運動会で見た鼓笛隊にぼくはカルチャーショックを受けた。荘厳とした行進の華やかさや風に舞う音楽の美しさに圧倒され一歩も動けなかった。特に指揮者のその姿には一瞬にして魂を奪われてしまった。『ぼくも6年生になったらあれをやるんだ!』運動会からの帰り道、ぼくは弟と妹、そして母の3人を引き連れて棒を振りながら歩いていた。数時間前に見た鼓笛隊の指揮者に成りきっていたのだ。4人の行進は家に着くまで続いた。

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
----------------------
PAGE TOP
目次
ESSAY TOP
HOME