<六十九の葉>
短編小説
『失くした男』(五)

 達也は急ぎ足で銀行に駆け込んだ。銀行の多くはなぜだかいつも混んでいる。平日の午後だったがある程度は時間がかかってもしょうがないなと覚悟はしていた。一目で案内係と分かる制服を着た人に近付くとキャッシュカードを失くしたこと、そのことはすでにこちらに電話で知らせてあることを伝えた。達也はすぐに2階に通された。銀行の2階になんて上がったことがなかったから興味津々で部屋に入るとそこには1階の喧騒とはまったく違った落ち着いた空間があった。そんな場所だと小難しい手続きも煩わしくは感じられない。

 気持ちよく銀行を後にするとその足で駅の横にある交番に向かい紛失届を出した。愛想のいい警察官に“盗難届”なのか“紛失届”なのか質問されていささか迷ったが、手続きが比較的簡単に済む紛失届にした。盗難届にはいつ、どこで、何を“盗られた”のかをはっきり書かねばならない。いつ、どこで無くなったかが分からないのだから盗難に遭ったとは言いにくい。それに自分が不注意だったことを自覚しているから“盗られた”と書くのは少々気が引けたのだ。「失礼します」達也は丁寧に挨拶をすると交番を出た。証明写真を撮ってからほぼ30分。写真はできているはずだった。達也はメモしておいたスケジュール通りに進行していることを確認しながら『予定通りにことが運ぶって気持ちいいな』などと別のことを考え始めていた。「ありがとうございます」カメラ売り場の店員の明るい声に見送られながら『あとは免許証だ』達也は少しだけ気持ちを引き締めた。

 『さて…試験場までどうやって行こうか』頭の中では数時間前に警察署に電話した時の会話がよみがえってきた。「あのぉ…、試験場まで車で行ったら無免許運転になるんですか?」「いや、無免許じゃなくて免許不携帯になります。車には乗らないで行ってくださいね」「は、はい…わかりました」新しい免許証を受け取れば堂々と運転して帰ってくることができる。問題は試験場までの足をどうするかだ。賭けになる。もし、車で行って何かの拍子に警官に声をかけられたら…。悪い時には悪いことが続くかもしれない。考えるとゾッとする。結局達也はバスに乗り込んだ。試験場まで約30分の距離だ。試験場は空いていた。順調に段階を踏みほとんど待たずに手続きを終えることができた。その過程で、免許証にこれまで記されていた“普通”が更新後は“中型”になることを知った。今年6月の道路交通法改正で中型免許が新設されたのに伴って、改正以前に取得した普通免許は中型免許(ただし限定付き)とみなされることになったらしい。(※普通免許が中型免許と呼ばれるようになったのではなく、道交法が改正された6月2日以前に取得した普通免許のみが限定付きの中型免許と見なされるようになった。普通免許は普通免許として存続している。ただし、改正によって普通免許で運転できる車がこれまでの総重量8トン未満(積載量5トン未満) から総重量5トン未満(積載量3トン未満)に変更されたため、例えばこれまで普通免許で4トントラックを運転していた人が困るというケースも予想された。その対策として改正前に取得した普通免許に限ってこれまで通り総重量8トンまでの車が運転できるようにしたのだ。ちなみに限定なしの本来の中型免許だと総重量11トン未満(積載量6.5トン未満)の車を運転することができる。)

 『意外と簡単に再発行してもらえるんだな』新しい免許証は2時間後に受け取れることになった。最後の難関を無事に超えた達也はホッとすると同時に空腹だったことに気付いた。かなりお腹が空いていた。それもそのはずだ。達也にとっての大事件は『郵便局に行ったらゆっくりと昼ごはんでも』と思っていた矢先のできごとだったのだ。時刻は3時を過ぎていた。地下の食堂に行ってみたが営業は終わっていた。『近くにファミレスがあったよな…』達也は試験場を出ると記憶を頼りに西に向かって歩いた。5分も歩くと赤と黄色のファミレスの看板が目に入った。階段を上がりドアを開け通された席に着くと初めて疲れを感じた。『がんばったなぁ…』一息つくとチキンの香草焼きのセットとコーヒーを頼んだ。

 少し冷静になるといろいろなことが頭に浮かんできた。郵便局には防犯用のカメラがいくつも備え付けられているはずだった。強盗に備えてのものだろうが、どの角度からでも犯人の顔を特定できるだけの設備は整っているはずだ。『その気になれば怪しげな人物を特定することができたはずだよな』しかし、郵便局としては盗んだという証拠がない限りお客さんを“疑うこと”すらしてはいけないに違いなかった。財布が無くなったというだけで防犯カメラをチェックしてもらうなんてどう考えても無理な話だった。それよりも『オレの財布を持っていった人、あるいは拾った人は今、どんな気持ちでいるんだろう』達也は見知らぬ人に思いを馳せてみた。できる限りその人の気持ちに近付いてみようと思った。『厚いわりに現金は少ないし、カードは足が付く可能性がある。がっかりしただろうな』『無料券とかたくさん入っていたからおもしろがって使うかなあ』『名刺を見て会社のホームページ見るかなあ…』

 中身を確認した後、財布をどうするだろうか…。達也は想像を巡らせた。財布を持っていった人が盗みを目的にあの場所にいたのではなく“郵便局に来ていた普通の人”だったとしたら、ふた通り考えられるのではないだろうか。現金と使えるものだけを抜いて財布そのものはどこか人目に付きそうな場所に置いておく場合と財布をゴミと一緒に捨てるか燃やすかして誰の目にも届かない所に葬ってしまう場合だ。前者の行為には『カードや証明書は持ち主の手に戻って欲しい』という気持ちが含まれているが、後者には自分の行為をなかったことにしてしまいたいという気持ちが色濃く出ている。万が一のために跡形もなく消してしまいたい、記憶から消してしまいたいという気持ちの表れだ。どちらの行為に及んだとしても一線を越えてしまった後悔の念にしばらくは悩まされるに違いない。金額は問題ではないのだ。

 更に考える。目の前に10万円の入った財布が置いてあったとする。いや、置いてあるのか、誰かが落としたのか、忘れていったのかは分からない。金持ちの小遣いの10万円なのか、泥棒の10万円なのか、アルバイトをがんばった10万円なのか、命をつなぐ10万円なのかも分からない。もし、この財布を持ち去っても他人には100%知られることはないとしたら人はどうするだろう。ほんの少しも気持ちが揺れることはないと何人の人が言えるだろうか。手を出そうなどとは一瞬たりとも考えないという人はどのくらいいるのだろうか。10万円ではなく5万円だったら…2万円だったら…1000円だったらどうだろう。『あっ!』達也は考えるのを止めた。『10万円だろうが100円だろうが問答無用で持ち去らなければならないような貧困に苦しんでいる国や地域があるのだった…』『オレはつくづく幸せな国で暮らしているんだな』

 チキンの香草焼きが運ばれてきた。達也はフォークとナイフを使って切り分け口に入れた。口いっぱいに広がるジューシーな味わいを期待していたのだがそれは脆くも裏切られた。中の方まで火が通っていなかったのだ。『チキンでこれはないよな…』食欲は一気に失せた。店員に一言でも言ってやりたかったがその気も失せた。

 新しい顔の免許証を受け取り達也は家路に着いた。バスはとぼとぼと走り出した。財布を失くした。いや、盗られたのか、拾われたのか、持っていかれたのか、本当のところは分からない。達也は彼の財布を手にした人の気持ちを考えてみても他人のものを盗らねば暮らしていけない人のことを考えてみてもやはり釈然としなかった。自分の財布が無くなった事実を失くしたかった。そして何よりもまずこのしょぼくれた心持ちを失くしたいと思った。達也の長い1日は終わった。次の瞬間に何が起こるのかは誰にも予測できない。(完)

(C)2007 SHINICHI ICHIKAWA
---------------------
PAGE TOP
目次
ESSAY TOP
HOME