<七十七の葉>
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 新しい年を迎えた。関東は元旦から見事に晴れわたり東京も千葉もどことなく落ち着いた空気に包まれていた。西暦でいうと2008年、日本の元号では平成20年となる。今年最初のエッセイは『いい年になれ!』との願いを込めて書いてみたい。

 『現在、外国人は日本人に対してどのような印象を持っていると思いますか』と聞かれたらあなたはどう答えるだろう。胸を張って「好感を持たれていると思います」と答えられるだろうか、それとも戸惑いを隠せずに下を向いてしまうだろうか…。残念ながら後者の方が圧倒的に多いのはあきらかだろう。世界の“目”に対して、我々の多くは『良く見られていない』と思い込んでしまっている。このような自国観が“先入観”として我々の意識の中に埋め込まれ、国の“常識”としてまかり通っているから始末が悪い。日本人はなぜ自虐的、あるいは盲目的とでも言っていいほどに世界からの評価を低く受け取ってしまうのだろうか。本当に日本人は良く思われていないのだろうか…。

 昨年の暮れ、新聞に『世界で意外に高評価』という記事が載っていた。その記事によると日本が“最も世界に良い影響をもたらしている国”の1位にカナダと共に挙げられていたのだ。イギリスのBBC放送とアメリカのメリーランド大学が27か国28000人を対象に行った共同世論調査の結果である。ぼくは一瞬目を疑ってしまった。カナダと同率1位だから2位はなく、3位欧州連合(EU)、4位フランス、5位イギリスと続く…。2007年3月に世界の約600のメディアで報じられたと書かれていたがこの事実をこの国ではどのくらいの人が知っているのだろうか。どのくらいの人が見た、聞いた、あるいは読んだのだろうか。たまたまぼくが知らなかっただけなのだろうか。いや、そうとは思えない。なぜこのような誇るべき事実をもっともっと国の喜びとしないのだろうか。オリンピックやワールドカップで勝つことも大事だがそれよりももっと大切なことと思えてならない。政府はあらゆる方法ですべての国民に知ってもらう努力をすべきだった。「どんな国にだって問題点はあるけれど、このアンケートの結果は誇ってもいいのだよ。胸を張ってもいいのだよ」と子供達に伝えるべきだった。いや、今からでも遅くはない。しっかりと伝えるべきだ。長期的なキャンペーンを張るというのはどうだろう。50年後、100年後の大きな財産となりはしないか。誇りは喜びにつながり喜びは更に意識を高める。謙遜を美徳とするのは素晴らしいことだと思うが日本に対するこのような評価を少なくとも知っておくことが世界に対する礼儀なのではないだろうか。

 高評価は様々な分野に及んでいる。昨年5月、米ネット企業「エクスペディア」が欧州のホテル関係者15000人を対象に行った調査でも日本人が『最高の客』に選ばれた。「行儀がよいか」「おしゃれか」などの採点基準で高ポイントを獲得しての結果だった。『日本人は皆同じ格好をしている』とか『めがねをかけてカメラをぶらさげているのは日本人だ』なんて言われたのは過去の話なのだ。その一方で、今でも迷信のように『日本人は蔑(さげす)まれている』と信じ込んでしまっている人が多いのも事実だ。悪い印象を拭い去るのはそれほどまでにむずかしい。ブランド品を買い漁(あさ)る若い日本人女性の姿やいたずら書きなど日本人の悪行は必ずと言ってもいいほどニュースになる。だが、このようにマイナス面ばかり強調するのはどうかと思う。偏り過ぎているとは言えないだろうか。冒頭の共同調査を請け負ったグローブスキャン社の社長は日本人への高評価の理由として以下の3点を挙げていた。1.技術力の高さ、2.漫画など日本のポップカルチャーの世界的な流行、3.海外での日本人の行儀の良さ。なるほど、うなずける。世界を席巻している漫画、アニメは特筆ものだ。これからの日本文化の行方を示し、大きな期待と夢を与えてくれる。

 新聞記事は続く。「日本が打ち出した中東支援策は国際社会の支援モデルだ」イギリス政府は昨年の9月に中東経済報告書でこう評価した。イスラエル、パレスチナ、ヨルダンにまたがるヨルダン渓谷に産業や流通の拠点を作ろうという日本政府の開発援助計画『平和と繁栄の回廊』のことだ。国際社会は従来国別に支援を行ってきた。これに対し、日本は紛争にかかわる3者に「利益のためにまずは手を携えて仕事をしませんか」と国の枠を超えた地域レベルの連携を提案したのだ。皮肉を言われ続けた経済分野だがこのような支援なら国民としても共感できる。

 我々日本人が自国をどう見ているかを示す数字も明らかになっている。昨年3月に行われたJICAの調査によると国際協力について「必要最小限のことが行われている」と60%の人が答え、「十分に行われている」と答えたのはわずか17%だ。2004年に実施された内閣府の『外交に関する世論調査』でも「日本は外国人に正確に理解されていると思う」と答えた人はわずか10%だった。読売新聞の国家観に関する世論調査(2005年)でも65%の人が「国際社会で日本は国力や国民の文化的水準などに見合った地位や尊敬を得ていない」と答えている。日本人の自己評価は低く国外の好意的な目とのギャップは大きい。記事にはその理由もいくつか挙げられていた。「明治以来西洋に対し劣等感を持ち自虐的になっていたからだ…」「反省の文化が根底にあり評価されることに不慣れなのだ…」「歴史認識をめぐって中国、韓国としばしばあつれきが起きこれが大きく取り上げられることから国際イメージは悪いと信じ込んでいるからだ…」言われてみるとどれも正しいような気がするがこの場合先入観が悪い役割を果たしてしまっている。

 先入観があるがために一歩も前に進めないということがある。身近な例で言えば野球がそうだ。わずか数年前まではメジャーリーグははるかに上のレベルで日本人選手は通用しないと思われてきた。それでも蓋を開けてみるとどうだろう。今や助っ人としてのイメージの方が強いではないか。このように実際にその場に立ってみなければ分からないことがたくさんある。これは重要だ。脳は積まれた“経験”のみに基づいて判断し指令を出す。この経験には実際に体験したことだけでなく見たり、聞いたりしたことも含まれる。そのため頭の中で作られた“イメージ”がすべて、ということになってしまう。日本の評価に対する内外格差の記事は『先入観をいかに超えるか』『常識をいかに破るか』という大きなテーマを与えてくれた。このテーマが次の一歩への鍵となる。先入観を超えるということは言い換えると、自分自身を超えるということでもある。簡単なことではない。2008年を迎え、壮大なテーマに身が引き締まる。

(C)2008 SHINICHI ICHIKAWA
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