<八十の葉>
楽器の話(番外編)

 2007年3月20日に始まった「楽器の話」は先月30日で第14話となった。当初はぼくが初めて手にした楽器から現在使用している楽器までを大まかに紹介しようと考えていたのだが思惑(おもわく)は意外な方向へと道を変えてしまった。いつの間にか“楽器”の話だけではなく、ぼく自身のバンドにおける歴史を当時の生活やできごとと共に発表するという形になってしまっている。第2話、第3話と書き進んでいくうちに話はどんどんと膨らんで、肝心な楽器の話がまったく出てこないということも度々あった。『う〜ん、どうしよう。困った…』と話の方向性やタイトルと内容のギャップに何度となく悩みもしたが、よくよく考えてみるとそれも無理のないことだと納得せざるを得なくなった。楽器そのものの解説をしようとしても、その前に楽器を手にしたときの想いがこみ上げてきて書かずにはいられなくなるのだ。そう気がついてから、なるべく事実をそのままに、そして思ったこと、書きたいことを正直に書こうと決めた。30年間に出会った楽器の数はそれほど多くはないが、それぞれの楽器と共にバンドがあり生活があった。

 このように自分自身の音楽の歴史やルーツを振り返ることができるなんて本当に幸せだと思う。バンドを経験したことのあるみなさん(特に同世代の方々)は『そうだったよな〜』と自分自身の姿を重ね合わせながら、そして経験したことのないみなさんは『バンドってこんな風に活動してるんだ』と興味を持ちながら読んでくれているとしたら喜びは何倍にもなる。現在は毎月一度、30日に掲載しているがこのシリーズがいつまで続くのかはぼくにも分からない。どのバンドのことまでを書くのか…、ひとつのバンドにどのくらいの枚数を要するのか…、バンド以外のことをどれだけ書くのか…。まったく見当がつかないのだ。まあ、先のことは考えず思いつくままに書くというのがこのエッセイの方針だから、これからも自分にとっての楽しみの時間と位置付けて書いていこうと思う。これからまた、どんな想い出がよみがえってくるのかぼく自身も楽しみでならないのだ。タイトルについては近いうちに変更したいと思っているが、無理やり考えるのではなく、しっくりくるタイトルが思い浮かぶのを待つつもりだ。もちろん、出会った楽器については今まで通り知る限りのことを書いていこうと思う。

 前号の「七十九の葉」ではバンド名について書いた。今までぼくが命名したバンドの名をすべて挙げたと思っていたのだがそれは大きな間違いだった。1984年2月に「L♂♀VE」が解散してから1985年10月、近藤真彦(マッチ)のサポートバンド「YAMATO」に参加するまでの間に活動していたバンドのことをすっかり忘れていたのだ。いや、忘れていたのではないと言いたいところだが、バンド名も出てこなかったのだから言い訳のしようがない。バンドに対してもメンバーに対しても失礼なことをしてしまった。「すみませんでした!」素直に謝りたい。さて…このバンドの“名”だが、簡単には明かせない。「七十九の葉」の中でぼくが命名したバンド名を挙げ、何人かにセンスがいいと誉められたばかりなのにそれらと一緒に並べていいものか…という類の名なのだ。エロとかグロとかいうことではない。まったくのセンスの問題なのだ。その名を聞けば賛否が分かれると思うが、たぶん賛同する人の方が少ないのではないだろうか。『ええ〜っ?』と思われる方には時代という点を考慮していただきたい。1984年当時のことだと大目に見ていただけないだろうか。このバンド名は初めて聞いたときと“なぜこの名なのか”という説明をされたあとで聞いたときとでは印象がまったく違う。それこそ雲泥の差だ。『そんなにすごい名前なのか』と変な先入観をもたれてしまっても困るが、確かにインパクトだけはある。それだけに反応も両極端になるだろう。『ちょっと飛躍し過ぎてたんじゃないの』とあきれられるかもしれないし、単に『ははははは』と笑われるだけかもしれない。それでも反対に『素晴らしい!よくぞ名付けた!』『かっこいいじゃん〜〜!』と誉めに誉められる可能性もある名なのだ。

 1980年、大学入学と同時にぼくは東京での生活をスタートさせた。入学後半年あまりは落ち着かなかったが、成蹊大学『ロック研』の同級生たちと結成したバンド「L♂♀VE」が瞬く間に生活の中心となった。中心も中心、大げさではなく本当にバンド以外のことは考えないのだから始末が悪い。生活のすべてがバンドを中心に回っていたのだ。10代のバンドの多くがそうであるように「L♂♀VE」のメンバーも家族や兄弟を超えたような不思議な存在となった。結局「L♂♀VE」は何度かのつらいメンバーチェンジを乗り越えて1982年3月21日にレコードデビューを果たすことになる。忘れもしない…その日は雨が降っていた。代々木にある日本青年館がデビューライブの場所だった…。止めよう。「L♂♀VE」についての話もその後のバンドの話もここでは書くべきではない。これらのバンドの話は連載中の「楽器の話」の中で書く予定なので楽しみにしていただくとして、ここではぼくが名付けたもうひとつのバンド名についてだけふれさせていただくこととする。

 そのバンドの旗揚げ時のメンバーはボーカル、ギター、ベース、ドラムの4人だった。若いバンドらしくスタイルやルックスにもこだわった。演奏や歌唱力はもちろんのこと(結果はともかく)ステージに上がったときに絵になるような男たちの集団にしたかった。このバンドを始めるにあたってぼくは初めて世界を意識した。すぐにではなくてもいい。いつかこのバンドで世界に出てみたいと思ったのだ。だからバンドの名には日本の象徴のような言葉を冠したかった。世界の誰もが日本のバンドだとわかるような名を付けたかったのだ。だが、日本を象徴するような言葉でバンドの名にふさわしいと思えるものはそう多くはなかった。まずは外国人が知っているだろうと思われる日本語を挙げてみた。『SAMURAI』『FUJI』…むずかしい。かといって『GEISHA』や『SHINKANSEN』ではバンド名になどなりはしない。いろいろな角度から考えに考え抜いたぼくはとうとうある言葉にたどり着いた。

 『どうだ!』とばかりにメンバーに話すと「ええ〜っ、何だよ、それ!」とか「頼むからそれだけは止めてくれ!」とかいう返事しか返ってこない。「はずかしいよ〜」とまで言われてしまったのだ。何度ミーティングをしても誰も納得してくれない。それでもぼくはあきらめなかった。そんな名を付けられてはたまらぬとそれぞれが名を考えてくるのだがぼくが考えた名を凌(しの)ぐと思えるようなものはなかった。とにかくぼくはみんなを説得した。繰り返し繰り返し説得した。「どれだけ大きな名なのか考えてくれよ 」「誰もが付けないからこそ価値がある名なんだ」「このセンスは時代の先を行っているんだ」ぼくの疑いを知らない確信はどうにかこうにか3人を納得させたのだが、いつになってもメンバーたちは「なんてバンド?」と聞かれるのを嫌がった。思い出すと笑ってしまうがみんなバンド名を聞かれる度に返答に苦心していた。自分からバンド名について話すことはまずなかったし、たまたまバンド名を聞かれたときやバンド名を伝えなければならないときには“なぜこういう名になったのか”を一生懸命に説明していた。「これこれこういう理由でこの名なんだけど、このセンスは分かる人にしか分からない…らしんだ」そして、「この人が付けたんだけどね」という言葉を付け加えるのを忘れなかった。

 その名は日本を代表する名である
 その名は日本人の象徴のようなものである
 その名は華やかで色気さえも含んでいる
 その名を日本人で知らない人はいない
 その名を名乗るバンドはそれまでもそれ以降もなかったであろう
 その名は数年後に雑誌の名として使われた

 みなさんはどのような名前を想像されるだろうか。「えええ〜〜〜〜!!」と驚かれようが、「な〜んだ」と言われようが、「むむむむ…」と口ごもられようが発表しない訳にはいかない。正直な話、今はぼくもかなりはずかしい。まずは理由を伝えてからでないと話しづらいのは当時のメンバーと同じだ。どうしてあそこまで自信を持てたのか、遠い昔のことで今では思い出せないがこの名から多くのことが始まったのは事実だ。

その名は…
その名は…「HANAKO」

(C)2008 SHINICHI ICHIKAWA
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