<八十五の葉>
楽器の話(十六)

 高校生の一日はにぎやかで
 高校生の一週間は盛りだくさんだ
 高校生の一ヶ月はイベントのオンパレードで
 でも高校生はいつも眠い


 たとえばぼくの手帳に書かれた1978年5月の第4週。月、火、水の3日間は中間テストだった。見開きの手帳の左ページには一週間の予定が、右ページにはテストの得点や順位、クラスの平均点等が細かく書かれている。英語と歴史以外は惨憺(さんたん)たる成績だ。(※当然ですが、本人の名誉のために点数を発表するのは差し控えさせていただきます。) 高校生にもなるとテストの範囲は広くなり、その内容も複雑になる。一夜漬けで対処できる限度をはるかに超えていた。勉強をしなければ納得のいく点数を取れる訳がない。

 水曜日はテストが終わった後に麻雀をやった。クラスメイトふたりを引き連れてミコトの家に行ったとある。このころになるとミコトとのわだかまりもだいぶ溶けていたようだ。音楽の次に、と言ってしまってもいいほど麻雀にも夢中だった。高校生になってから覚えたのだが、麻雀の覚えたてほど始末の悪いものはない。東金、成東、松尾、横芝、光、八日市場…どの町にも雀荘代わりのたまり場があった。友達の友達の家だったり、友達の友達のまたその友達の家だったりした。小額だが賭ける。少ない小遣いを取り合うのは情けないとしか言いようがないが、友達同士ということもあって賭けは紙の上でのみ行われることが多かった。ほとんどの場合、麻雀が終わっても現金のやりとりはなく貸し借りとして記録に残し、紙の上でプラスいくら、マイナスいくらと続けていくのだ。そして、そのままでうやむやになってしまうことになる。結局、賭けることは二の次だったのだ。

 この日はこれだけでは終わらない。活動休止中だった「Mother」の江崎さんからフェンダーのプレベを借りてきたとも書いてある。よほど時間のやりくりと気持ちの切り替えがうまかったとみえる。それにしても、どんな気持ちでプレベに向かったのだろうか。当時も今も楽器の最高峰と言われているフェンダーの楽器だ。プレベもジャズベも見るからに美しい。見た目も音も良くてどっしりとした存在感もある。完璧という言葉を使ってもいい数少ない楽器のひとつではないだろうか。フェンダーに対する憧れが消えることはない。

 木曜日は学校から帰ると光中に行き野球部のコーチをした。同級生ふたりと共にユニホームに着替えて練習に参加している。それほど気合が入っていたのはなぜだろうと思ったのだがその謎はすぐに解けた。翌日の金曜に成東高校でスポーツ大会があって、ぼくはソフトボールとバレーボールに出場していたのだ。自分の練習も兼ねたコーチだったに違いない。こうして折りにふれて野球部のグラウンドに現れては後輩たちにふざけたことをさせていたらしい。野球部の後輩たちからは会うたびに恨み言を言われてしまう。土曜日もスポーツ大会は続き、ムカデ競争やリレーをやったと書いてある。ムカデ競争は3位、リレーは2位、8クラス中、男子は総合4位、女子は総合7位だった。この日の欄の最後は『チームワークが抜群だった』という言葉で締めくくられている。このようなクラス対抗の学校行事は結束力を植えつける。ぼくたちのクラスも例外ではなかった。クラスメイトたちとどんどん親密になっていった。

 そして、この土曜には悲しいできごともあった。我が家の一員だった犬PONが死んだのだ。PONは数日前から体調を崩していた。隣の家で生まれ、ぼくと弟が父と母に頼み込んで飼わせてもらった雑種犬だ。白い小型犬で小首を傾(かし)げるしぐさがかわいかった。飛ぶように走る姿がまぶたに焼き付いている。昭和47年7月22日誕生、昭和53年5月27日没。病気で死んだのだがまだ6歳だったのか、と思うと複雑な思いに駆られる。亡骸は夕方、父と近くの林に葬った。悲しみをひきずったままおばあちゃんの家に行き泊まった。

 日曜は9時に起きて光中へ。野球部の練習でノックを手伝って11時20分に帰宅。当時10チャンネルでやっていた視聴者参加型の音楽番組『ロックおもしろっく』を見て12時30分には「CHILD」の練習場に行っている。テツロウとふたりで練習をしたらしい。ふたりでどんな練習をしたのだろうか。記憶がまったくない。ハーモニーの練習でもやっていたのだとしたら我ながら誉めてもいい。それにしても常時楽器がセットしてあって好きな時にいつでも練習ができる環境があったなんて今では考えられないほど恵まれている。今更ながら本当に感謝しなければならないと思う。テツロウも2時間近くかかる道のりをよく通ったものだ。それにしてもこの頃の一日は長かった。いや、“時間”そのものではなく、“時間の感じ方”が年々変わっているのだろう。時が次第に速度を増しているように感じる。正月を迎えたばかりだと思っていた2008年もはや4分の1が過ぎ去った。

 6月7日、クラスメイトのミヤセから電話があった。彼のバンド「BLACK HAZE」が7月2日に行う初ライブに「CHILD」も対バンとして一緒に出演しないかという内容だった。言わずもがな、だ。喜んで受諾した。「CHILD」にとっても初ライブということになる。ライブ前の3日間は毎日練習した。6月29日は65%、30日は80%できてきたと書いてあるが、さすがに7月1日は100%とは書いてない。たった1日でそんなに上達したり結果がでる訳がない…と今は思う。だがそうではないのかもしれない。あのころは本当に日に日にうまくなっていたのかもしれないのだ。『スポンジが水を吸うがごとく』という言葉がある。そんな時期だったのだろうか。

 ライブが決まった後の練習の日「ライブで何、着よっか?」テツロウが切り出した。そして、そのまま衣装をどうするかという話になった。ぼくは何も考えていなかった。キンジも無言だ。だが、リッカだけがアイデアを持っていた。「作業服にしない?」リッカの突然の言葉に「はぁ?作業服??」ぼくたち3人は顔を見合わせた。まったくイメージがわかない…というか、ぼくは作業服というものを思い描くこともできなかった。『そんな服着たロックバンドってある?』テツロウもキンジも頭の中で自分に作業服を着せているようだった。「いいかもな…」テツロウがつぶやいた。「とりあえずさ、見に行ってみない?」キンジの提案にぼくたちは楽器の電源を落として練習場を後にした。リッカの頭には「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」のイメージがあった。「ダウンタウン」(※当時は「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」のことをこう呼んだ。今はフルネームで言わなければならない。)は揃いのツナギを着て颯爽と音楽シーンに登場した。74年リリースの大ヒット曲『スモーキン・ブギ』はバンドに憧れるものたちにセンセーションを巻き起こした。彼らは文句なくかっこよかった。4人が揃いの服を着るというのは、前出のクラス対抗行事の話ではないが結束力を高めるという一面がある。リッカはみんなが同じ服を着ることを前提として、高校生でも買えるものを考えたのだろう。
 
 作業服は商店街にある洋品店においてあった。作業服は灰色のような薄墨色のような上下そろいの服だった。ポケットがたくさん付いている。正真正銘作業をするために作られた服だ。ファション性はなかったと言っていい。値段は確かに安かった。いくらだったか覚えてはいないが高校生のぼくでも安いと思ったくらいだ。確かに小遣いでも買える。「これにしようよ。かっこいいと思わない?」リッカが言った。「うん。いいと思う」テツロウが間髪入れずにはっきりと言い切り、キンジは黙ってうなずいた。ぼくも4人が揃いの服を着るという考えには賛成だ。文句はない。「そうしよう!」決まった。こうして「CHILD」はその名にまったく相応(ふさわ)しくない衣装での出発となった。ここでひとこと言っておかなくてはならない。今のぼくの姿と作業服をダブらせるのは勘弁してほしい。17歳だったから許されたファッションなのだ。作業服を着た17歳の4人バンドというのは手前味噌だがかっこよかったと思う。作業服の前をはだけ頭はリーゼントできめた。高校3年生になると黒の揃いのタンクトップにジーンズというロックンロールスタイルに落ち着くのだが前期の「CHILD」は作業服で通した。

 7月2日のライブは50分。「CHILD」が先に演奏した。手帳を見る限り盛り上がったいいライブになったらしい。記念すべき初ライブを覚えていないのは何度も繰り返すが不徳のいたすところで情けない。しかし「CHILD」には勢いがあった。4人で楽器を掻き鳴らし!歌い!躍動した!

 この日のライブを皮切りに「CHILD」は飛躍する。この日から3年生の学園祭まで「CHILD」は駆け抜けるのだ。(つづく)

(C)2008 SHINICHI ICHIKAWA
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