<九十三の葉>
欧州考(五)

 欧州考は今編で最後となる。4編にわたってヨーロッパツアーで見たこと、聞いたこと、感じたこと、考えさせられたことをそのまま文字にしてきた。歴史を感じさせる街並み、古い物を大切にする心、美術館で感じた芸術と生活の関係、ヨーロッパで見たメイドインジャパン、食べ物の話、はずかしい日本人の話、便利と不便の話等々、読み直してみると時系列は無視して、思いついたことから書いているのがおもしろい。さて、最終回のテーマだが、5編目だからと言って印象度が低い話になってしまうという訳でも、最後にものすごい話をとっておいたという訳でもない。ただ、滞在中何度となく、それも様々な場面で同じような気持ちになった記憶があるので、最後にそのことを書くのがふさわしいと思える。それを伝えることは、ちょっと大袈裟だがヨーロッパの風に吹かれ、土や石を踏みしめてきた者としての責任、義務を果たすことにはならないだろうか。

 “眉をしかめてしまったこと”を書いてみようと思う。ぼくには意外に感じられたことばかりだ。だが、それぞれの場面で「んん?」と首を捻(ひね)ったのはぼくだけではないはずだ。それはヨーロッパを訪れた日本人ならば誰もが多かれ少なかれ感じる違和感のようなもので、素直には受け入れがたい現実でもある。

 電車やバスの窓の汚れが気になった。べたべたとした手の跡や汚れが目立つ。テレビの紀行番組や美しい写真集では決して見ることのできないものだ。フランスのTGVやスペインのAVE等の特急電車の窓にも干からびた虫の死骸がこびりついていた。日本の電車に乗り慣れている身からすると考えられない。車両の掃除をまったくしないとは考えられないから、何日かに一度ぐらいは窓拭きをするのだとは思うが、さあ、これから出発しますという始発駅で乗車したにもかかわらず、そんな汚れを発見してしまうとがっくりしてしまう。さすがにホームの上はきれいに清掃されているが、ホームから見下ろすレールの周辺には半端ではない量のゴミが散乱している。明らかに昨日今日捨てられたとは思えないようなゴミが乱舞しているのだ。乗客も駅員も気にならないのかなあと周りの様子ばかりを窺ってしまう。ご存知のように日本では電車やバス、タクシーまで、公共の乗り物は磨き抜かれている。乗り物だけではない。駅、バス停、レール、道路までが美しく保たれている。この素晴らしい伝統は守り続けなければならない。まさに、おもてなしの心だ。

 ヨーロッパは禁煙先進国だと思っていた。日本の喫煙率は男が約40%、女は約13%。男性の喫煙率が下がる傾向にあるのに対し、女性の喫煙率は上がっている。特に若い女性の喫煙が増えているらしい。男性の喫煙率は減少しているとはいえOECD(経済開発協力機構)の統計によると、いまだに加盟30ヶ国中4番目の高さだ。ヨーロッパ諸国はギリシャを除いて軒並み日本より低く30%前後、最も低いスウェーデンに至っては14%だ。しかし女性の喫煙率を比べると一転して日本は加盟国中3番目に低い国となる。これに対してヨーロッパ諸国では20%前後に達していることから、女性の喫煙率の高さが際だっている。煙草の値段は確認しなかったが一箱1000円近くするはずだ。ヨーロッパでは、この統計の数字以上に煙草を吸っている人が多いように思えた。特にフランスでは女性の喫煙者が多かった。ぼくも41歳までは煙草を吸っていたから美味さはよく分かる。今でも時々あの感覚を思い出すことがあって、懐かしくも感じられるのだが、煙草の害がここまではっきりと証明されてしまうとさすがに口にしようとは思わない。問題はマナーだ。日本でもマナー向上をうたったコマーシャルが盛んに流されている。携帯灰皿を身に付ける喫煙者が増えていて、手持ちの灰皿に吸殻を入れている人を見かけるといいなと思うが、ポイ捨てをする人は減らない。ヨーロッパでもそんな場面をよく見かけた。スマートに着飾り美しい髪をなびかせた若い女性のポイ捨ては特に無残で見苦しい。交差点に植木があった。地面には編目の格子が埋められていて、その小さな網目のひとつひとつに吸殻がぎっしりと押し込められていた。煙草の紙と葉の部分は風化してなくなってしまったのだろう。スポンジの部分だけが蜂の巣のように格子を覆いつくしていた。

 街の空気もいいとは言えない。細かい数字は分からないが排ガス規制の数値が日本より甘いのは明らかだ。幹線道路のように大きな通りを歩いていると車の排気ガスの臭いが鼻につく。昭和40年代、50年代の日本の都会の臭いだ。なるべく深く呼吸しないうようにと心がけるのだが、その効果が期待できる訳がない。道路に面したオシャレなカフェには庇(ひさし)の付いた屋外の席がある。店構えがいくらオシャレであっても、美味いドリンクが置いてあってもこんなに濃厚な排気ガスの中には頼まれてもいたくない。ゴッホやルノワールの絵の中のカフェならいざ知らず、そんな席に着こうなんて気にはまったく起こらなかった。

 昭和40年代、50年代で思い出したのがヨーロッパの自動販売機だ。前回、街の中に自動販売機はないと書いた。だが、駅の構内にはひっそりと置かれていてぼくはそれを何度か見かけた。日本ならばそうそうお目にかかれない年代ものだ。いや、機械自体は新しいのかもしれないが、どう見ても作りは極めて原始的だ。ガラスの中に7段ぐらいの棚があって、その棚はいくつかに区切られている。区切られたコーナーにはポテトチップスの小袋やスニッカーズのようなチョコレートがそれぞれ重ねて置かれている。硬貨を入れて品物の前に書かれた番号を押すと針金を曲げて作られたアームのようなものが商品を押し出すようになっているのだが、見るからに単純だ。ぼくは滞在中、通算で3度、販売機を使う人を見かけたが、なんとそのうち2回は商品が針金と機械の間に引っ掛かってしまい落ちてこなかった。ふたりとも人目をはばからず販売機を押したり、叩いたり、しばらくの間機械と格闘していた。ひとりは首を竦(すく)めて諦めたが、もうひとりは新たにコインを入れ同じ番号を押した。そしてアームが動く瞬間に販売機を揺すり2個一緒に落とそうとした。なかなかいいアイデアだと思って見ていたら、目論見は見事にはずれ、結局彼がゲットできたのはひとつだけだった。彼は不本意な顔をして立ち去った。気持ちが分からない訳ではない。たとえ100円でも販売機で損をするのは悔しい。逆に10円でもおつりが多かったら理由もなくうれしいのだがこれはなぜだろう。ベルギーのライブハウスにも自動販売機があった。この販売機、コーラもビールも同じ値段だ。コーラが高いのではない。ビールが安いのだ。ぼくは1ユーロコインを入れてみた。コーラのボタンを押したのだが、うんともすんとも反応がない。店の人にジェスチャーで知らせると「ベンディングマシーン」と言って肩をちょいと上げた。「自動販売機だからしょうがないね」と言ったニュアンスだ。よくあることなのだと理解した。

 フランスのいたるところで目にしたそれは新しいものからかなり古いものまで様々な状態で横たわっていた。公園の芝生でくつろぐカップルや気持ちよさそうに昼寝をしている人の側には必ずと言っていいほど転がっていたし、街中でも堂々と存在感を誇っていた。その貫禄はたいしたものだ。ぼくたちが泊まったホテルの前の歩道にも2メートル置きにあって踏まないようにと声を掛け合いながら歩いた。はっきり言ってこれでは幻滅してしまう。どうにかしてほしいものだ。日本でも道端に放置されているのを時々見かけるが、最近の愛犬家のマナーはどんどんよくなっている。最近は犬を連れている人の多くはバックを手にしていて、犬がことをなすとすぐに始末する。そんな様子は見ていても気持ちがいい。ある日のパリ、天気のいい日だった。ハンバーガーを買って芝生の上で食べようということになった。たくさんの人が芝生で寛(くつろ)いでいるのが気持ちよさそうに見えたのだ。良さそうな場所を選んで座ろうとするのだが、どこに言っても必ずそれが先に陣取っていた。ぼくたちが特にデリカシーがある部類だとは到底思えないが、それらの隣に腰を降ろして仲良く食べる気にはなれない。結局は諦めてベンチに座って食べた。そういえば…小学校1年生の頃、卸したてのズックで野原を駆け回っているうちに犬の落とし物を思い切り踏んだ。それはまだ生暖かいようなシロモノで、帰るなり母が「もお〜嫌だ〜」と顔をしかめながらタワシで洗ってくれたのを思い出した。その時から運が付いたのか、付かなかったのかは誰にも分からない。

 ヨーロッパから帰って二月(ふたつき)も経ってしまった。地図やパンフレット、チケットの半券や写真…日本に帰ったらゆっくり整理しようと思っていたのだが、まったく手付かずの状態だ。悪い癖だとは思うのだが、やけに膨らんだ紙袋がこのままどこかにしまわれてしまうだろうことは目に見えている。それでもいいかなと思う。春の欧州ツアーの思い出は5編のエッセイに刻み込まれた。さあ、夏だ!

(C)2008 SHINICHI ICHIKAWA
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